雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

フクイチ・科学技術・「あわい」への思考

フェイスブックにこんな投稿をしたところ、友人たちいくつかのコメントが寄せられました。返事を書こうと思ったのですが、長くなったのでこのブログに記してみることにします。

 

 

ぼくは、フクイチ(福島第一発電所)のことが報道されなくなっていることに危機意識を感じているのですが、少し考えを整理してみました。友人からのコメントにもあったのですが、今、日本に住む誰もが知っておく必要があるのは、イチエフ(現場の作業員からはこう呼ばれているそうですね)の過酷な作業の実態だけではなく、あの原子力発電所における技術的な問題です。もちろん、ぼくは素人ですから細かいことはわかりません。けれども、少なくとも福島の発電所で起ったこと、そして今起っていることは、ぼくだけでなく、ぼくの子どもたちにとっても、無関心ではいられません。

 そこでフクイチの現状について、1) 事故以前と 2) 事故以降にわけて、事故の経過をおいながらポイントをリストアップしてみました。

1)事故以前:「安全神話」によってシビアアクシデントの評価が不十分
 a.今回の福島ではすでに廃炉にされているはずの旧式原子炉が稼働中だったこと。
廃炉の決定を先延ばしにしていた
 b. 地震津波の想定不備
津波対策(防波堤など)の不備。安全対策の専門家の指摘よりも、経営判断を優先させたのか?
→自家発電装置の設置場所が地下あったこと。そのため津波で水浸しとなる。これは単純な判断ミスではないか?
→結果として全交流電源喪失(SBO: Station Black Out)を招く。
 c. 全交流電源喪失(SBO )対策が日本では想定されていなかった!
→SBO時における緊急冷却装置の機能不全により格納容器内の冷却ができなくなる
→容器内の圧力上昇によりベント(容器内の圧力を外部に逃がすこと)が必要となる
→作業の訓練の不備によるベントの遅れ
 d. ベント管の設計不備
→ベント管が新安全基準にあわせるだけの言い訳的なものであったこと
→結果としてベントにフィルターが不備であったこと
→フィルターを通さず容器内の放射性物質を大量に外部へ排出
→広範な放射能汚染を引き起こしてしまった!
f. 水素対策の不備
→緊急停止後のオペレーションのミス、あるいは配管の不備により水素が漏れる
→1号機、3号機では原子炉建家で、2号機は圧力抑制室で水素爆発が発生
→オペレーションミスは安全訓練の不備、配管の問題は設計段階からの不備による
→そもそも旧型を稼働させていたのが問題。したがって a. に戻る
→建屋、格納容器が大きく破損し、復旧廃炉作業が極めて困難になる

2)事故以降:原発のシビアアクシデントに対する技術開発の不備

 a. 大量の真水が確保できない状態であった

→海水でもあっただけましだが、後に腐食の問題が生じる

 b. 汚染水の処理技術の不備

→仏アレバ、米キュリオンに膨大な国家予算を投入するも、実際にはうまく機能していない

東芝の「サリー」と「アルプス」を最終的に投入するが、これは3年経ってようやく稼働。しかもまだ安定していない

→汚染水タンクが急ごしらえのまま。ここに予算が投入されていない

 c.4号機の問題

→燃料プールの補強作業の必要性(これはある程度進んでいるように見えるが、万一また巨大な地震津波が来て、上部に燃料プールが設置された建屋が倒壊すると、悲劇的な放射能汚染となる)

→燃料プールからの取り出し作業が進行中だが、一部の使用済み燃料棒が破損しいるらく、プール付近で高濃度の放射線が検出されており、作業が非常に困難になりつつある

→対策として、高濃度放射線汚染のなかで作業を可能にする技術開発が必要となる

d. 1号機、2号機、3号機の状況が不明、また具体的対策はまったく立っていない

→今後何十年にもわたり冷却を続けなければならない(同時に高濃度の汚染水が発生し続ける)

→汚染水の処理対策が進行中だが、問題が山積み

→おそらく核燃料が格納容器の外に溶け出している(メルトスルー)

→小さな臨界を繰り返し、放射能汚染が継続的に発生する

→地下水が継続的な高濃度汚染にさらされつつある

→対策として、短期的には汚染水対策の技術開発、長期的には溶解した燃料を処理する技術開発が必要となる

以上のように考えると、原子量技術は安全対策が不備のまま進められて来ており、一度シビアアクシデントが起った時に対応する技術が未整備の状態にあります。

しかし、これは原子力技術に限ったものではありません。たいていの新技術は、実際に問題が起ったときに、その対応を考えるのが普通です。公害対策は公害に先行することはありません。おそらくそれは、技術というものが持つ特質なのでしょう。長崎浩がその『思想としての地球』で示すように人間の歴史において、とりわけ20世紀以降、科学技術とは「盲目的に自己増殖するシステム」(長崎浩『思想としての地球』)にほかなりませんでした。やっかいなのはこのシステムが、その内部に「大衆の行動様式」あるいは「欲望」を組み込んでいることです。

この「大衆の行動様式」あるいは「欲望」を、市場や政治と読み替えてみれば、原子力東京電力という公共事業と市場活動のはざまに生まれた鵺のような存在であり、原発の問題が核兵器がらみの安全保障と深く絡み合っていることが理解できるはずです。

 東電は、一方で市場活動を行う限りで「原発再稼働によって収益確保をはかる」ことになります。なぜなら彼らにとっては、「輸入燃料高に耐えるよりも再稼働の方がコスト減」というのが市場の論理だからです。しかし、彼らはほんとうに市場の原理だけで動いているわけではありません。なぜなら電力事業者の実態は、電源三法によって守られた国営企業にほかならないからです。まったくの市場原理だけで動く企業であれば、保険をかけられない原発事業はリスクが高くてとても継続できないはずですから。

 しかし、発電事業が公共事業であるなら、そこには長期的なエネルギー政策の視点を持ち込むことができるはずです。ところが、エネルギー政策を考えるべき日本政府もまた、景気の回復を約束することで自らの保身をはかっているのげ現状です。政策が市場原理におもねているわけですから、エネルギー政策は短期的で市場迎合的なものとならざるをえません(つまり経済界の要望に応えて原発を推進させることですね)。じっさい、現在の安倍内閣は景気優先を訴えることで政権を取り支持率を維持し続けており、先の都知事選でも脱成長、脱原発を訴える細川・小泉陣営は勝つことができませんでした。

 ぼくたちが無視することができないのは、したがって、「大衆の行動様式」あるいは「欲望」なのでしょう。技術が「欲望」を取り込みながら盲目的に自己増殖してゆくのが避けられないとしても、ぼくたちは自分自身の「欲望」の持ち方を制御できるのではないでしょうか。市場の全面化が共同体を破壊し、ぼくたちの消費者としての「欲望」を駆り立てているとき、ぼくたちは同時に、社会的なものから駆逐され、個々の孤独な消費者へと堕落してゆきます。そして、そこでぼくたちは、「欲望」に駆られながら焦燥感に苛まれ、貨幣が与えてくれる万能感に酔いしれながら果てしない無力感に打ちのめされています。現代的なうつ病や貧困の問題は、まさにぼくたちのいる状況の病症として、その解決を迫るものではないでしょうか。

 おそらく突破口は、こうした現代的な「欲望」がもたらす「病症」のなかにあるのでしょう。うつ病はある意味で「欲望」の拒絶です。貧困は「欲望」の実現不可能性です。そしてそこに共通する孤独感は、共同体の崩壊を指し示しています。だとすれば、ぼくたちが批判すべきは「欲望」の背後に隠れて働いているなにものかを、白日の下に引き出すことであり。崩壊しつつある共同体を再び立ち上げるためにできることを探すことなのでしょう。

 それは未だ言葉にはなっておらず、したがって形のないものでありながら、同時に、すでに言葉のなかにその所在を指し示されており、まだ誰も形あるものとして見極めてはいない、そういうモノなのではないでしょうか。それはぼくたちが意識していないところで働きながら、ぼくたちを深く、おそらくは言語的にも身体的にも規定しているのではないでしょうか。それはある意味でぼくたちの経験の「あわい」に働くモノなのでしょう。だとすれば、今ぼくたちは、この「あわい」への思考を進めてゆかなければなりません。それはぼくにとって、言語の立ち上がるところを見極めようとする作業であり、崩壊しつつあるぼくたちの居場所を確保しなおす作業でもあります。

 それは手探りの困難な作業ではありますが、ぼくにとって次のような実践のなかに具体化されるものです。ひとつは外国語を教えること。イタリア語と日本語の「あわい」に立ってみること。ひとつは映画や文学から考えること(例えば、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』は科学技術が盲目的に生み出したパラレルワールドを経験させてくれます)。芸術作品とは、まさに現実と表現の「あわい」に立ち上がるものにほかなりませんよね。そして、理論的な読書。柄谷行人の『世界史の構造』やジョルジョ・アガンベンの『開かれ』などは大いに触発的でした。ちなみに「あわい」という言葉は、安田登さんの近著『あわいの力』から拝借しました(読み始めたばかりなので、ぼくがここで「あわい」と言葉でイメージしたものと少し違うものかもしれません)。そしてこのブログやツィッター、そしてフェイスブックのようなソーシャルメディア。こうした新しい技術によるメディアがなければ、ぼくはきっともう少し途方に暮れていたことでしょう。

 

 

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あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)

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