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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

「日本的なもの」の誘惑

 長谷川三千子は、その『日本語の哲学へ』において、ぼくたちの話す日本語によって、日本語のなかで、固有の哲学的思考を展開する可能性を開こうとした。それはひとつの冒険だったと思う。しかしその冒険がかくも危険なものへの接近でもあったことを、その「野村秋介追悼文」が示しているのではないだろうか。その追悼文の後半部分を引用してみよう。

 
 人間が自らの死をささげることができるのは、神に対してのみである。そして、もしもそれが本当に正しくささげられれば、それ以上の奉納はありえない。それは絶対の祭りとも言うべきものである。
 野村秋介氏が二十年前、朝日新聞東京本社で自裁をとげたとき、彼は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかった。彼らほど、人の死を受けとる資格に欠けた人々はいない。人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどということを露ほども信じていない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである。
 「すめらみこと いやさか」と彼が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であった。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。
 野村秋介氏の死を追悼することの意味はそこにある。と私は思う。そして、それ以外のところにはない、と思っている。
 
その論述は、哲学者らしく、一見みごとに演繹的推論をしているように見える。それを三段論法の形で書き出し見るとこうなるだろうか。
 
1.「人間が自らの死をささげることができるのは神のみである」
2.「野村秋介は自らの死を天皇に捧げることができた」
3.「したがって天皇は現御神となった」
 
なるほど、その前提が正しいとするならば、こうした演繹的推論には疑問の余地がないように見える。しかし、長谷川の文章をよく見てみれば、その推論はむしろアブダクションと呼ばれるものに思われる。この形式にしたがって彼女の主張を書き出してみよう。
 
1.「人間が自らの死をささげることができるのは、神に対してのみである」
2.「《朝日新聞社野村秋介が《すめらみこといやさか》と3回叫んで自裁した》ことは彼が《神にその死をささげた》と仮定することでうまく説明できる」
3. 「わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられた」。 

 

 アブダクションは広い意味での帰納的な推論だ。演繹的な方法が、前提が正しいものであるかぎり真理を保証するものであるのに対して、帰納的な方法は、さまざまな条件を確かめながら蓋然性を高めてゆくところに特徴がある。長谷川が『日本語の哲学』において展開した「こと」と「もの」をめぐる興味深い議論もまた、ある意味でアブダクションだった。そして、その方法論は歴史学者カルロ・ギンズブルグの徴候解読型的なアプローチや、「すべての歴史は現代の歴史だ」としたクローチェの歴史主義、そして古代人の知の森にわけいっていったヴィーコの文献学にも共通するように思える。歴史の闇へと立ち降りてゆくためには、微細な兆候を読み解きながら、仮説推論的なアブダクションの方法は、たしかに有効なのかもしれない。

 
しかし、である。このアブダクションという方法は、たしかに真実にたどりつくために非常に有効な方法ではあるものの、そこにはあくまでも限界があることもまた確かなのだ。たとえばそれがシャーロック・ホームズエルキュール・ポアロのような探偵であれば、真犯人の告白によって自らの仮説の正しさを検証することができるのかもしれない。しかし、「知の狩人」に仮説検証の機会はない。歴史の闇にひそむ真実が、その目前にあらわれて真実を告白することなどありえないからだ。
 
さらにアブダクションの推論形式は、非常に有効であると同時に、それは後件肯定(Affirming the consequent)という形式的誤謬に陥りやすいことを忘れてはならない。後件肯定とは例えば次のようなものだ。 
 
1. 英雄は、色を好む
2. わたしは色を好む
3. だからわたしは英雄である。

 

 後件 the consequent とは、上記の例の場合には「色を好む」のことを言う。前提である「英雄」から「色を好む」が導かれたとしても、「色を好む」ことを肯定しても、かならずしも「英雄」を導くことができない。つまり「わたしが色を好む」からといって、「わたしが英雄である」を導くことは形式的な誤謬なのである。長谷川氏の論述をこの形式で記述してみよう。

 

1.「神は人が自らの死をささげる対象だ」
2.「天皇は、野村秋介がその死をささげた対象だ」
3. 「だから天皇は、神だ」
 
おわかりだろうか。「野村秋介がその死をささげた」からといって「天皇が神」であるということを導くことは、まさに後件肯定の推論として、誤謬の可能性を含むものなのである。
 
そんな後件肯定的な主張について、ぼくが思い出すのは、マイケル・ムーアのドキュメンタリー『ボーリング・フォー・コロンバイン』だろう。アメリカのコロンバイン高校で銃乱射事件が起きたとき、世論はその原因をめぐって、暴力的なゲームが悪いとか、ロック歌手のマリリン・メイソンから悪い影響を受けたなどの声があがった。ムーアはそのひとつひとつを検証しながら、この推論の立て方におかしなところがあること見出してゆく。そして、こうした推論の立て方がいかに不条理なものかを示すために、犯人の学生たちが犯行当日の朝、全員でボーリングに行った事実から、「犯人たちが銃を乱射したのはボーリングに行ったからだ」という皮肉めいた主張をしてみせる。それが「ボーリング・フォ・コロンバイン」というタイトルの含意なのだ。
 
長谷川三千子に戻そう。ぼくは彼女の『日本語の哲学』を読んで、なるほど、そうだったのかもしれないと膝を叩いた。歴史の闇へと立ち向かうその明晰な方法論は、たしかに闇の一端に光を当てたように思えたのだ。だからこそ、「こと」と「もの」の分析からさらに進んで、予告された「は」と「が」をめぐる分析を待望している。それこそは、本格的に「日本語の哲学へ」の道を本格的に開くものだからだ。おそらくそれは、あのヴィーコが古代人の世界にわけいったように、また古代漢字学の碩学白川静が思い切って提示してくれた漢字の起源にあった呪術的世界のように、日本語という兆候を通して、ぼくたちのよって立つ言語の起源の闇に隠された「日本的なもの」を露にしながら、まさに日本的な思想を展開する重要な導きとなるはずのものなのである。
 
しかし、である。最近の長谷川の言動を見ていると、「日本的なもの」を見極めようとする彼女のまなざしは、あまりにも拙速にそれに接近しようとするあまり、それなしにはすまされない哲学的な懐疑を忘れているように思われるのだ。アブダクションの使い手が、アブダクションの罠に落ちた、そう思えて仕方がないのである。おそらく長谷川にとっての「日本的なもの」は、あのバートランド・ラッセルが警戒していた神秘主義なのであり、B. クローチェが警告した「アルチーナの誘惑 alcinesche soluzioni 」なのであろう。それは、思想が思想の限界にいたろうとするとき、思想の居着きを見過ごさずに、その思想を引き込んでしまうデモーニッシュな誘惑なのだ。おそらく長谷川は、「もの」という日本語に否定性を含み持つ存在論的な構えを析出してみせたその瞬間に、その思考営みを居着かせてしまったのかもしれない。だとすれば、思考を居着かせてしまった哲学者は、もはや哲学者ではない。その言説がどれほど哲学的な装いをまとってみせても、その言葉はもはや思考の営みではなく、ただ思考の限界をマークするにすぎないのであろう。
 
 野村秋介の死を追悼する長谷川三千子の言葉の意味はそこにある。とぼくは思う。そして、それ以外のところにはない、と思っている。
 
日本語の哲学へ (ちくま新書)

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