読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ある詩人の言葉

イタリア語 もろもろ

Erri De Luca 2

 

あるナポリの詩人のフレーズがぼくをとらえた。こんなフレーズだ。

 
È la più certa prova d'amore quella di un uomo che cambia parere per essere d'accordo con la donna.  ( Erri De Luca, [1950 - ]  ) 
 
日本語にすれば、こんな感じだろうか。
 
【男が見解を変えて女と合意しようとすることほど確実な愛の証はない】
                      (エッリ・デ・ルーカ)
 

う〜ん、これって逆は言えないのかな? ふと、そんなふうに思ったのは、もちろんぼくが男性だからだけれど、だからといって「女性も見解を変えて男と合意するようにしてほしい」なんてことを言いたいわけじゃない(少しだけ思ったことは白状しておきます、はい)。

 

言いたいことは、そうではなくて、この詩人が言う男は、男でなければならないのかということ。つまり「人が見解を変えて他者と合意しようとすることほど確実な愛の証はない」とは言えないだろうか?そう思ったのだ。


たしかに、ぼくがこの詩人の言葉にハッとしたのは、ぼくが男だからなのだろう。同じ男という立場から、ある気づきが表現されていることが僕をとらえたのかもしれない。それはそれでよい。でも「これって男にかぎることなのか?」というのが、ぼくの疑問。

 
前提にされているのは、きっと、「見解を変えようとしない男」なのだろう。こういうヤツには覚えがある。だって、それは僕自身でもあったのだから(もしかすると今でも多少はそうなのかもしれない)。ところが、そんな頑固なヤツ(?)でも、本当に大切な女性が相手であれば、みずからの「見解を変える」ようなときがある。どうやら、この詩人はそう言っているようだ。
 
なんとなくわかる気がする。どうでもいいヤツが相手なら、ぼくがわざわざ自分の「見解」を変えることなんてない。そもそも男ってヤツは、自分の「見解」が絶対正しいと思い込んでいるフシがある。なぜそう言えるかといえば、じつは自分もそうだったからだ(反省を込めて告白する)。もしかすると今でもそうかもしれない(そうだったらゴメン)。
 
ここで「見解」と訳した言葉は、イタリア語の parere だ。これはようするに「見え方」ということ。ぼくたちの前に現れる何かは、そもそも、何らかの「見え方」をしている。でもそれはあくまでもひとつの「見え方」であって、角度が変わればまた別の「見え方」がある。ところがぼくたちは、とりあえずひとつの「見え方」を得ると、そこから出発して、そこから自分だけの「見方 parere 」を作り上げてゆく。それはやがて、それなりに複雑で、それなりに筋の通った「意見 opinione 」となり、やがて確固とした「確信 convinzione 」となってゆく。ここまで来ると、たんなる「見え方 parere 」だったものが、ちょっとした世界を内包する物語のような様相を帯びてくるわけだ。
 
 
もちろん、自分なりの物語世界を持つのは悪いことではない。けれども、その物語はあくまでも自分自身のもの。そして、ひとたび自分の物語が出来上がってしまうと、そいつはもはやたんなる「見え方」のように、別の方角から見れば別のものになることはない。ひとつの「確信」となって自らの物語世界の領域を設定すると、その外を見えなくしてしまうのではないだろうか。いきおい、人はそんな個人的な世界に閉じ篭ってしまい、自分の物語世界に見合う人間以外を排除してしまい、気がつくと、その世界にいるのは自分一人になってしまう。それはきっと孤独なことなのだけど、もはや孤独であることすら感じられなくなってしまうのだとすれば、実にまずい事態ではないか。
 
問題は、気づかずに自分の物語世界に閉じ篭ったとき、人はそれが孤独であることすらわからなくなっていることだ。その世界の外には多様な可能性が広がっているにもかかわらず、である。
 
けれども、よく考えてみれば、ぼくらはそれぞれ自分なりのやり方で物語を作り上げているのだ。他人の物語があることを認めないことは、翻って、自分の物語を認めてもらわなくてもかまわないということにならざるをえない。そのとき、自分の物語を語り聞き届けるのは自分の他にはいないくなる。そうするのは勝手といえば勝手なのだけど、自分の物語を支えているのが自分自身しかいなくなったとき、その自分自身の存在を、どのようにすれば自分自身で保証することができるのだろうか。
 
なんだかデカルトの「我思う、故に我あり」みたいな話になってきたけれど、そのデカルト的な自明性って、いわれるほどに確かなものなのだろうか。
 
先に引いた詩人の言葉にはこういうものもある。
 
Mi chiedo da solo: non me ne potevo accorgere per conto mio di esserci? Pare di no. Pare che ci vuole un'altra persona che avvisa. 
 
 【わたしは自問する。自分が存在することに自分で気づくことは出来なかったのだろうか、と。きっとできなかっただろう。他の誰かに気づかせてもらわなければだめだと思うからだ】

 

そうなのだ。「他の誰かに気づかせてもらう」ことがなければ、ぼくたちは自分が存在していることに気づくことはない。そんなふうに教えてくれる他者がいなければ「ぼく」は「ぼく」に気づかない。「ぼく」を見て、「ぼく」に名前をくれて、「ぼく」に微笑かけ、話しかけてくれる人がいなければ、「ぼく」を「ぼく」として存在することはなかったのだと思う。
 
こうして「ぼく」という存在が立ち上がるとき、そこで働いていた何ものかを、ぼくたちは「愛」と呼ぶのだろう。その「愛」の力は、ぼくたちが閉じ込められている「見方」や、「見解」や、「確信」や、自己の物語世界の自明性から引き離してくれる。そうすることではじめて「ひとりの男 un uomo 」は、あの詩人が言うところの「女なるもの la donna 」と出会い、この異他なる存在と「合意する essere d'accordo 」ために、おのれだけの自明性の世界をわけのわからない他者の謎へと開くことになる。
 
そのとき「ぼく」たちは、自分の存在を担保していたものが、つねにすでに、どこかよその場所から到来するものであることを知るのではないだろうか。おそらくそれは、アガンベンが「 quodlibet (なんであってもかまわないもの)」と呼んで、「愛する価値のあるもの」としたものにほかならないのだろう。
 
上にあげた詩人のフレーズを、ぼくはそんなふうに解釈したのだけれど、どうだろうか?
 
 

 

到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険)

到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険)