雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ヘイトスピーチ、貧困問題、そして疎外の向こう側へ

今朝のTVサンデーもニングを観ていたら、「風をよむ」のコーナーでヘイトスピーチを取り上げていた。そこでは、ヨーロッパでもそうだが、日本でもヘイトスピーチがネットだけではなく路上でも横行していると報じられていた。これに対してアンチ・ヘイトスピーチの集会やデモが開かれ、両者がぶつかって逮捕者がでる騒ぎにまで至っているのだという。

 
ゲストで呼ばれていた河野洋平ヘイトスピーチを法律で規制すべきだと述べるのだが、新コメンテーターのアーサー・ビナードが、なかなか鋭い指摘を返していた。アーサー・ビナードミシガン州生まれのアメリカ人だけど、23歳で来日して日本語を学び、以来、翻訳家、日本語でのエッセイスト、詩人、俳人として活躍するまさに「日本語をなりわいとするアメリカ人の詩人」。そんなアメリカの詩人は、ヘイトスピートの背後にずばり貧困問題があると指摘する。近年、もはや這い上がることを諦めざるえない貧困層が拡大したことが差別的な言動の温床になっているのだと。だとすれば、河野洋平が言うように法律を作って「ヘイトスピーチ」を規制するのは解決にもならない。そう言うのである。
 
そういえばイタリアでは今、ホモフォビア(同性愛嫌悪)が問題になっているけれど、その背後にあるものもまた貧困問題なのだろう。あちらでも本当に仕事がない。あっても非正規労働か、ほとんど無報酬のインターンといったありさま。明日の見えない世界で、明日を生きようとする若者のエネルギーは出口を見失っている。
 
ヨーロッパや日本だけではない。ニューヨークでも、2011年9月に「ウォール・ストリートを占拠せよ Occupy Wall Street 」という呼びかけで大規模な選挙運動があったことはまだ記憶に新しい。そうなのだ。たしかに今世界的な問題として貧困問題がある。そしてヘイトスピーチは、この問題のひとつの症候にすぎない。「 We are 99% (我らは99%だ)」というスローガンが端的に示すように、今、資本主義世界は1%の富裕層と99%の貧困層に分断されていっているように見える。
 
その点、さすがにアメリカ映画は敏感だ。ぼくが観たなかでは、レン・ワイズマンの『トータル・リコール』やアンドリュー・ニコルの『Time/タイム』などは、明らかに、この「99%」の貧困層の反逆を描いた作品。どちらも貧困層のなかに正義の英雄が登場し、悪の富裕層に対してリベンジする。まだ観ていないけどニール・ブロムカンプの『エリジウム』(2013年)もまた同じような物語みたいだ。
 
トータル・リコール』と『Time/タイム』は、奇しくも「ウォールストリート占拠」と同じ2011年の作品であり、どちらも同じような説話構造をもっている。コリン・ファレルが演じた記憶を失くしたダグラス・クエイドも、ジャスティン・ティンバーレイクの残り時間(=金=命)を失いそうになるウィル・サラスも、物語の冒頭では、多くの貧困者のように、自分の住処をどこかよそよそしい場所として生きている。ふたりはともに、ある種の疎外感を生きている。そこに悪の富裕層が登場し、やがて彼らの本来いるべき場所ではないことが明白となると、彼らは本来いる場所へ向けて武器を取る。つまり、疎外感の原因が明白となったとき、ふたりはともに、自分の本来の場所に向かうための戦いを始めるのだ。それは革命の物語(『トータル・リコール』)であり、ピカレスクロマン(『Time/タイム』)だ。
 
そんな革命の物語とピカレスクロマンは、そのラストシーンにおいて、かたや搾取のための地球貫通エレベーター「フォール」が文字通り打ち倒され、かたや時間銀行のシステムがクラッシュさせられる。それは、99%の人々が本来あるべき場所を見出したイメージであり、救済のイメージにほかならない。おそらく、99%の観客は、そのイメージにカタルシスを感じながら家路につくことができるのだろう。映画は、彼らを満足させなければならないのだから。
 
しかし、である。この救済のイメージに騙されてはならない。たとえ「ここ」が本来の場所ではないという事態に、ぼくたちの誰もが共感するのだとしても、ラストにおいて示される「ここではないどこか」を、はたして本来の場所として受け入れてしまってもよいのだろうか?歴史を振り返れば、革命の後には恐怖政治がやって来たではないか。アーサー・ペンがヒーローとして称揚した「ボニーとクライド」は、まさに蜂の巣のようになって息絶えたのだ。
 
ぼくたちが「ここ」と「ここではないどこか」の間に引き裂かれていること。そんな状態を考えることを「疎外論」と言う。宮台真司は、この疎外論は2つにわけて考えようとする。ひとつが「本質的疎外論」、もうひとつが「受苦的疎外論」だ。どちらも引き裂かれている点では同じだが、「ここではないどこか」の捉え方が違う。
 
「本質的疎外論」において、「ここではないどこか」は本質的な場所であり、そこにたどり着きさえすれば、疎外は解消されることになる。だからその在処を明らかにすれば、あとはそこへとひた走ればよいわけだ。しかし「受苦的疎外論」においては、人間の疎外は解消されることはない。なぜなら人間とは常に「ここではないどこか」を考えてしまうものだからだ。たとえその在処を見つけ、その場所にたどりついたとしても、そこで人間はまたしても「ここではないどこか」という思い描いてしまう。そして、また新たな疎外に苦しむことになる。まさに疎外とは人間という存在から切っても切れない、まさに受苦的な問題だというのである。
 
ぼくが怖いなと思うのは、もしかするとヘイトスピーチの背後にも、この「本質的疎外論」のようなものが働いているのではないかということだ。たしかに、その背後には貧困問題があるのかもしれない。貧困状態にあるとき、人はじぶんが疎外されていると考え、「ここではないどこか」を考えてしまう。そこまでは疎外論だ。しかし、そこから人が「ここではないどこか」に救済があると思い込んでしまうとき、まさに疎外の克服のため、自らの救済のため、そして往々にしてそれは正義の名の下に、たとえばヘイトスピーチに走ってしまう。しかし、ヘイトスピーチがとんでもないことだとは思いも寄らない。正義の暴力に訴えるものが、暴力が暴力を呼ぶということに無関心なように、正義の憎悪を訴えるものも、憎悪の連鎖の恐ろしさを知らないのだ。およそ世界中の革命が恐怖政治に陥ったのと同じように、ピカレスクロマンに酔った世界中の若者が悲惨な最期を迎えるのと同じように、「本質的疎外論」にとらわれた人は、まさに救済のただなかにあると思った瞬間に、再び疎外の極へとたたき落とされてしまうことになる。
 
おそらく必要なのは、宮崎駿が言うように「どこもおかしくない世の中など歴史上一瞬でも存在したことはない」という諦念なのだろう。結局ぼくたち人間は誰も、どんなにおかしいと思ってみても、「今」と「ここ」から逃れることはできない。それは「受苦的な疎外」なのだ。その「今」に向き合い「ここ」にしっかり立ってみようではないか。そして、所在の知れない「ここではないどこか」を遠目にみながらゆっくりと進んでゆこうではないか。それしか、ぼくたちにできることはないのだから。
 

 

  

 

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