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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

「あまちゃん」とパンドラの箱

あまちゃん 歌のアルバム

 

今週の『おら、みんなに会いでぇ!』を見ての感想を一言で言えば、パンドラの箱を開けてしまっても、人生は続くのよ、というところだろうか。

 

「人生は続く」というのは小泉今日子のセリフだ。映画評論家の町山さんに言わせると「アッバス・キアロスタミ監督がイラン大震災の直後に自分の映画に出演した子供たちを訪ねていく映画「そして人生はつづく」への言及だね」ということになる。なるほど、大地震の後の復興という意味では、たしかに重なるものがある。

 

けれども、ぼくたちの3・11はそれだけではない。地震津波のあとに、あの原子力発電所の事故が続いたのだ。ところがクドカンの脚本は、その話を微妙に避けているように見える。あのころ人々の口に上った言葉として「自粛」「デモ」「辞任」そして「絆」などを挙げるものの、「水素爆発」「ベント」「線量」「直ちに健康に影響はない」「風評被害」という言葉はふせられている。そして、原発の事故に触れないことで、このドラマを批判する人もいるようだ。

 

しかしである。ぼくはクドカンがあの事故に知らぬふりをしているとは思わない。そうではなくて、深く考え抜いたのだと思う。その思いが確信に変わったのは、土曜日の放送を見たときのことだ。

 

三陸に帰ったアキは、かつて海女カフェがあった場所を訪ねる。「もうそこにはアキちゃんが懐かしいと思うものはもうねえよ」と言われても、アキはその場所を見ないではいられない。「袖が浜ではここが一番酷かったんだ」という言葉のとおり、そこは瓦礫だらけの廃墟と化していた。ふとアキは、泥のなかに「ストーブさんと種市くんが徹夜で作った看板」を見つける。それは彼女の「思い出のつまった看板」だ。うずくまって、看板の泥を払うアキの姿に、夏ばっぱが耐えかねたように口を開く。

 

誰のせいでもねえ。自然のいいとこばかり利用して、自然の怖ええとこから目(めえ)背けて、そのうち忘れてまう。それが人間の傲慢さだ。

 

ハッとさせるセリフだ。もちろん、ふつうに読めば「自然のいいところ」とは海女たちが採ってくるウニや海藻であり、「自然の怖いところ」は地震津波のことになるのだろう。けれども、そうした自然災害に対する備えを忘れてしまったことを「人間の傲慢」とまで言うのは少々大げさではないだろうか。これまでも大きな地震津波があったが、そのときに聞かれたのは自然の猛威に対する「人間の無力」という表現だ。だが、クドカンはあえて「人間の傲慢」という表現を使っている。そしてそれにもかかわらず、その言葉にそれほど違和感がないのはなぜなのか?

 

この夏ばっぱのセリフは、もしクドカンが福島の事故のことをすっかり忘れていたなら書けなかったものだと思う。もちろんこの脚本家は、原発事故と放射能汚染という、いまだに専門家の意見がわかれ、だれもが確かなことを言えない問題を取り上げることには躊躇したのだろう。それでも、クドカンの躊躇の背後には、はっきりと、あの問題への関心が働いている。それはまさに、この夏ばっぱのセリフではっきりわかる。このセリフの「人間の傲慢」というくだりが大げさに聞こえないのは、ぼくがちが原子力発電所の事故のことを覚えているからにほかならない。

 

そもそも原子力とは、ランという鉱物を掘り出して、そこから巨大なエネルギーを取り出すことにある。まさに「自然のいいところ」を利用しているわけだ。ところがぼくたちは、例の「安全神話」のもとで「自然のいいところばかりを利用して、その怖ええところから目を背けて、そのうち忘れてしまった」のではなかったか。そして、愚かにも自らの忘却と無関心によって、 福島から広がる大地を、そこから広がる太平洋を汚染してしまったのではなかったのか。だとすれば、それはまさに「人間の傲慢」ではないか。

 

クドカンは、ただの地震津波なら「人間の無力」と言うべきところを、夏ばっぱにわざわざ「人間の傲慢」 と言わせているのだ。そこには地震津波のような自然の猛威のことだけを言われているのではない。明らかに原子力発電所の事故のことが含意されているのだ。実際、宮本信子の大げさな演技とともに発せられるこの言葉はじつに重々しい。彼女は海女カフェが瓦礫の山となったのは「人間の傲慢」のせいだと言っているのではない。そこには原子力という「人間の傲慢」によって損なわれたものへの、深い諦念が重々しく込められているのだ。しかし、だからこそ、われらがクドカンは、そんな「人間の傲慢」という諦念をひっくり返そうとする。そもそも諦めてしまってはコメディではなくなってしまうではないか。あくまでも喜劇作家として、クドカンはアキにこう答えさせるのだ。

 

よし、海女カフェを作り直す!

 

この言葉に、海女クラブの面々は驚いてこう言い返す。

 

何言ってんだアキ。夏バッパの言ったこと聞いてなかったんか?

 

海女クラブの女たちは、夏ばっぱと同じように、オモテには笑顔を浮かべながら、そのウラで深い諦念を抱いていたのだろう。もはや「瓦礫となった海女クラブ」とは「原子力事故によって損なわれたもの」の象徴なのだ。それが「人間の傲慢」によるものだとしたら、その再建は諦めるしかない。それがわからないのか。北三陸の海女たちはアキにそう言っているように聞こえる。

 

けれども、そんな彼女たちへのアキの答えがふるっている。笑わせて考えさせる。迷セリフであり名セリフだ。

 

だいたい聞いてた。ようするに、気にするなって意味だべ!

 

いやはや、予想できたとはいえ、そうこなくては。さすがクドカン。さすがアキである。アキはもはや、「地味で暗くて、向上心も協調性も存在感も個性も華もない、パッとしない子」ではない。それは母の春子(小泉今日子)も認めていたことだ。北三陸に来たアキは、「みんなに好かれ」、彼女のおかげで「みんなが変わった」のだ。アキはまさにアイドルだったのである。アイドルが「人間の傲慢」なんて言葉に首をうなだれ、沈んだ顔をしたのでは話にならない。アイドルに諦念は似合わないのだ。みんなに好かれ、みんなを動かすのがアイドルなのだ。

 

だからこそアキは、夏ばっぱの言葉の意味をグイとばかりに自分に引き寄せると、それを積極的なものへと転換してみせたのだ。なぜなら東京で彼女は、「おらに出来ることなんだべ」とひとり悩んでいた。TVを見れば「あまりに問題が山積みで…おらひとりじゃどうにもなんねえ」と感じていた。だから「ひとつになろうといわれても、息苦しいばっかりで、ピンと来ねえ」と思っていたのだ。ところが、実際に故郷(第2の故郷)に帰ってくると、大げさな笑顔でむかえてくれる仲間がいた。みんなで「まめぶ」をつつき、大笑いする仲間たちがいた。それが彼女には発見だったのだ。

 

とりあえず人は元気だ。

食べるものもある。

それはいいことだ。

北鉄も走ってる。

それもいいことだ。

東京さいたら、いいことが耳に入ってこねえんだ…

 

そうなのだ。ニュースというものはたいてい悪い話しか伝えない。それだけ聞いていれば世界は悪い話であふれかえってしまう。だからこそ現場に足を運ぶ必要がある。そこで顔と顔をあわせ、ひとつひとつ、小さな良い話を確かめてゆけば、ぼくたちが生きている現場のほんとうの姿が見えてくる。そこは人と人の関わりがある。その関わりのなかで、自分にできることが見えてくる。それがアキにとっては「海女カフェの再建」、つまりは「失われたものの回復」だったのだ。

 

オラが作った。直すとしたらオラしかいねえべ。

 

いやあ、感動的な話だと思ったら、ここにクドカンは安立ユイを登場させると、さらにもう一度、話をひっくり返すではないか。

 

無理だよ。これは現実だから「逆回転」はできないよ。

 

うおおお、強烈な一撃だ。あまりにご都合主義で楽観的なアキの「海女カフェ再建」の夢は、ここでもう一度現実に引き戻される。そうなのだ。「失われたもの」はもう元には戻らない。ここにクドカンの喜劇の深さがある。たしかにこの脚本家は、3・11の地震津波で誰かが死ぬのだろうという大方の予想を裏切って誰も殺さなかった。けれどもアキのこのセリフによって、ぼくたちに流されて死んだ人が大勢いて、その人たちはもう戻らないことをはっきりと思い出させてくれる。そして汚された大地もまた元には戻らない。現実はTVや映画ではない。だから「失われたもの」はもう戻らないというのが現実なのである。

 

だからこそ次のシーンで、アキとユイは、小高い丘にある北鉄の駅から袖が浜の街とその向こうに広がる海を見ているのだ。それはかつて生きていた人々が暮らした街であり、その人々を連れ去った海だ。ふたりは今、死者たちを見送っている。「失われたもの」を思い出し、それが「失われたもの」であることを確認しようとしている。それはまさに「グリーフ・ワーク(喪の作業)」と呼ばれるものにほかならない。

 

考えてみれば、この一週間は「グリーフ・ワーク」の話だったのだ。それはバラバラになった家族や親戚や友人たちを結びつけ、現実に目を向けさせるための作業にほかならない。だからこそアキとユイもようやく再会し、あの小高い場所に立っている。そししてそのとき、喪の作業はひとつの節を迎えることになる。その節がまた、クドカンらしいコミカルでロックな節なのだ。それは心配するアキに対する、ユイのこんな告白に見られるものだ。

 

わたし落ち着いてるよ。

彼氏できたし。

紹介しないよダサいから。

ハゼとジミー・ヘンドリックスを2で割った感じ。

ハゼ・ヘンドリックス。

 

そんな優しい彼氏が出来たという告白に続けて、ユイが言う。

 

不幸とか通り越して

悪運強いなと思うようになった。

 

このセリフはまさに、死なずに生き残った者が死者たちとの関係を調整し、「失われたもの」を生産する「グリーフワーク」のなかからつかまれた言葉にほかならない。ユイはいま自分の今に目を向けているのだ。だからこそアキもまた、自分のいる場所に目を向けようとしている。それは、「どうして帰って来たの?」と問いかけたユイに対する、アキの次のような返事のなかに読み取ることができるだろう。

 

決まってるべ。

ここが一番いいところだって

ユイちゃんに教えるためだ。

 

それはかつて、遠洋漁業に出てほとんど家に帰らないアキの祖父が言った言葉の反復だ。祖父は世界中を回る理由をこう言っていたではないか。

 

いろいろ経験して、でも結局、ここが一番いい、北三陸が一番いいって(夏ばっぱに)教えるためだ。

 

そうなのだ。たしかにそれはアキのオリジナルではない。けれども僕たちの言葉なんて、所詮、誰かが言ったことの反復なのだ。けれどもその反復を、どれだけ自分のことばとして、目の前の人に届けるかが問題なのだ。そして、ここでアキの言葉はしっかりとユイに届いたように見える。なぜならユイがこんなふうに応じているからだ。

 

大好きなアキちゃんがそういうなら、信じようかな。

 

いやあ、胸を打たれるセリフではないか。「大好きなアキちゃん」というユイは、アキにとっても「大好きなユイちゃん」なのだ。大好きな者が大好きな相手に言う言葉は、信じるに値する言葉なのだ。そして信じるに値する言葉があるところに、小さくても確固とした共同体が立ち上がるのだ。そこには大好きな人がいる大好きな場所なのだ。だからこそ、ユイがこう宣言する。

 

よし決めた。

こうなったらわたしここから一歩も出ない。

わたしに会いたければみんな北三陸にくればいいんだもん。

 

力強い被災地の復興宣言ではないか。そしてそれはまた、地方のアイドルの復活宣言でもある。そして、今の自分を確認させてくれたアキに、ユイが感謝の言葉の口にする。帰って来てくれてありがとう。そんなユイの言葉に頷きながら、アキはアキでこう宣言するのだ。

 

道のりは長げえ。

でもやらねばなんねえ、

わざわざ帰(けえ)って来たんだから。

 

たしかに道のりは長いのだ。それでもぼくたちはやらねばならない。人生は続くのだ。たとえ大地や海が放射能で汚染されたとしても、ぼくたちは生きてゆかなければならない。まさにぼくたちは、パンドラの箱が開けられた後の時代を生きているのである。

 

そうなのだ。パンドラの箱は開けられてしまったのだ。しかし思い出しておこう。あのパンドラの箱が開けられたとき、たしかにありとあらゆる災いが世に溢れ出したのだが、最後の災いが出てくる前にフタは閉じられたというではないか。

 

その最後に残った災いのことを、古代ギリシャ人はエルピス Elpis と呼んだらしい。エルピスとは「予期」のことだ。ただしこの言葉は、「良い出来事」を予期するときにも、「悪い出来事」を予期するときにも使われていたらしい。そこでパンドラの箱の寓意の解釈には、いくつかのヴァージョンが生まれる。まずは「あらゆる災いは世に出たが、希望が残された」というものだ。しかし、箱に閉じ込められた希望とは災いのことなのだ。だとすると「希望=良い出来事の予期」というのもまた災いということになる。「良い出来事を予期」して生きることが災いだというのは、かなりペシミスティックな解釈だ。ようするに「希望」なんていうのは人間をおとなしくさせておいて、やがてひどいめにあわせるためのものだというのである。 実にニーチェ的な解釈ではないか。ぼくたちは「希望」なんていうものに騙されずに生きるほうがよいというわけだ。しかし、このエルピスの解釈にはもうひとつ「悪い出来事の予期」というものがあった。そこで第二の解釈が生まれることになる。箱のなかに残ったのは「悪い出来事を予期」するほうのエルピスだというのだ。世のなかには、すでにありとあらゆる災いが出てしまったのだから、その上で「悪い出来事を予期」するような力が与えられてしまうと、人間は絶望するほかない。しかし、その災いの力は閉じ込められた。だから人々には希望が残ったというわけだ。

 

 

いずれにせよ、パンドラの箱の寓意としてぼくが納得できるのは、エリピスというのは災いだということ。それが希望であれ絶望であれ、来るべき何ものかへの予期によって、今を生きているぼくたちが縛られるようなことがあてはならないということだ。たとえ、夏ばっぱの言うように「人間の傲慢」がいかんともしがたいものであるにしても、アキのように「海女カフェの再建」のようなものに希望を託すにしても、そんな絶望や希望に縛られて、目の前のものごとから目を背けてはならないということだ。

 

ぼくたちはいつかは死んでしまう。死すべき存在としての人は、すべてを失うように生まれて来たのだ。だからこそ、少しずつ失われているものに捕われるのではなく、そのことで未来に絶望するのでもなく、だからといって空しい希望を持ち続けるのでもなく、わずかでも手元に残されたものに目を向けること。そして、その残されたもののなかに輝く何かを、その度ごとに見出して行くこと。それしかないではないか。

 

なぜならそれこそは、あらゆる災厄を越えて生き延びた「残りの者」あるいは「サバイバー」に残された唯一の道であり、人生という喜劇がめざすところのハッピーエンドにほかならないのだから。

 

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