雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

帰省

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ここのところ毎年8月には倉敷に帰省している。
 
帰省するとまずお寺に挨拶に行き、山の畑から榊や彼岸花をいただくと、少し離れた墓地にまわり、墓石を掃除し、花々を飾り、お経をあげる。セミの鳴き声のなかで汗が流れ落ちる。
 
なんだか、ありふれたことをやっていると思う。
 
それから娘を連れてイオンモールに行く。彼女らは祖父からの小遣いで買物をして、昼にはたいてい「ふるいち」のぶっかけを食べ、時間があれば映画でも見る。美観地区をまわってお土産を物色するのも相変わらずだ。
 
夜の食事も決まっている。まずは回転寿し、それからハンバーグ屋。外食に飽きるとマルナカで少し贅沢な食材を買う。料理も作るけど、たいていはパスタとか焼き肉。そのまま親父につきあって焼酎をちびちびやることになる。出てくるのは大抵いつもの話だ。子供たちでさえ「それ聞いたことがあるよ」という具合だから、よほど同じ話を繰り返しているのだろう。けれどもたまに「へえ〜」となることもある。そんなとき、どんなに小さなことでも、故郷の家にはまだ自分の知らない歴史があったということを思い知らされる。
 
東京から倉敷に帰るとき、少なくともぼくは新幹線を使わない。80歳になる親父は、もう免許を返納してしまったので、あっちの家には車がないというのもある。東京とちがって、倉敷で車がないと、足がない。あっちはまさにモータリゼーションのただなかにある。
 
けれど、列車を使わないのは、ぼくにとって、ただ向こうで足を確保するためのものではない。お盆の渋滞をうまく避けてみても、東京ー倉敷の約700キロを走るのに、休憩を入れて12時間くらいかかるけれど、その12時間の移動時間は、少なくともぼくにとって悪いものではないのだ。そりゃ疲れはする。けれど、助手席の娘なんかとたわいもないことを話し、彼女たちのかける音楽を聴かされながら(ぼくの聴きたい音楽はほとんどかけさせてもらえない)、次はどのあたりで休憩して給油するかをぼんやりと考えながらアクセルを踏み続けると、「ああ、また今年もここを走ってるな」なんて思うのだ。
 
また同じことをやっている、そういう感覚は悪くない。確かにまわりは少しずつ変わってゆく。増えたり減ったりしながら、それでも同じことをやり続けている。そこにははっきりとした時間の感覚がある。それはただ過ぎ去ってゆく時間ではない。ぐるぐるとまわりながらつながってゆく時間だ。気がつけば、すでにこの世を去った祖先を巻き込み、まだ生まれぬ子孫たちの姿さえ予感させるながら、つらなってゆく。
 
帰省というのは、そういう時間に触れるためのものなのかもしれない。

 

PS

こういう気分を見事に映像化してくれたのが是枝さんの『歩いても歩いても』でしたね。因みにタイトルは、石田あゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌詞からとられたもの。


BLUE LIGHT TO YOKOHAMA (Ayumi Ishida) - YouTube