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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

到来する映画

原発事故を描く映画『朝日のあたる家』が、日本各地の映画館から上映拒否を受けているという。監督の太田隆文さんのブログにはこんな言葉が記されている。

 

全国の映画館と交渉を続けている。原発事故を題材とした映画なので大手映画館チェーンは上映拒否だと分かっていたが、原発ドキュメンタリーを上映する独立系の映画館からも拒否が続いている。「最近は原発映画に客が入らない」というのが理由らしい。(http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2013-07-25-1

 

作品そのものについて、ぼくは見ていないので何とも言えないが、ブログを読めば、各地で自主上映され観たい人からのメッセージも届いているというし、外国での上映も決まっているらしい。それはそれで、ひとつの映画の誕生として言祝ぐべきことだと思う。

 

しかし、この映画を日本で上映しようとすると、各地の映画館から上映を拒否されることに憤慨するのはどうだろうか。せっかく撮り上げた作品なのだから、怒りたくなる監督の気持ちも判らないではない。けれど、よく考えてみると、話はもう少し複雑なのではないだろうか。

 

おそらく「最近は原発映画に人が入らない」という映画館の言葉は、今の時代の核心に触れているのだと思う。実際、先ほどの選挙では、原発問題に触れず経済問題を優先した党が圧勝したし、聞くところによれば、TVで原発事故関係のニュースを流すと視聴率が下がるらしい。明らかに、多くの人はもうあの時のことは思い出したくない、触れて欲しくないと考えているのだ。

 

ぼくの知人も、そもそも「映画館も商売なので観客が入るかどうかが重要」だと指摘しているが、これにはぼくも同意する。そもそも映画は、商売として成り立たなければ、映画としても成り立たない。観客が見たいと思わない(と予想される)作品を映画館が受け入れる必要はないのである。たとえそれが、どれほど重要な政治的、社会的問題を訴えるものだとしても、観客が入らなければ上映されないというのが、映画産業のルールなのだ。

 

映画とういうのは、そもそも観客が入ると予想されるときはじめて映画館で上映される。それは映画が産声をあげる瞬間であり、はじめて一般上映される年月日こそが、ひとつの映画作品の誕生日にほかならない。 小説が読者を得て初めて小説となるように、映画もまた観客を得て初めて映画となるのだ。だから、生まれる映画がある一方で、ついに映画館で上映されずに「お蔵入り」となる映画もある。それは技術的、経済的な理由で完成にこぎ着けられなかったり、フィルムとしては完成しても観客から望まれなかったという理由で、生を受けることなく、ちょっと大げさにいえば映画の「水子」となった作品たちなのだ。

 

『朝日のあたる家』が映画館から上映を拒否されているという事態は、そんな映画の誕生にまつわるひとつの事実を思い起こさせてくれる。ひとつの映画作品の生死は、お金を払って見たいという観客の欲望によって決まるということだ。それがあってはじめて、映画はスクリーンの上で生命を与えられるのであり、それがなければ「水子」として流されてしまうことになる。それが厳然たる市場のルールなのだ。

 

市場のルールというものを考えるとき、ぼくにはファシズム期のイタリア映画が思い出される。当時は「白い電話」と呼ばれる喜劇映画が人気を博していた。批判する人は、それをファシズムが人々の暮らしを豊かにすることを「白い電話」という豊かさのシンボルが表象していたと解釈し、こうした喜劇作品が体制側のプロパガンダだと読み取るわけだ。しかし、映画が映画である以上、そこで市場の掟がどのように働いたかを見なければ、ほんとうの人気に秘密はわからないのではないだろうか。考えてみれば当たり前のことなのだが、戦争中に戦争の悲惨や、英雄たちの姿ばかりを見たいと思う人は多くない。むしろ、少々浮き世離れしていても、美男美女がでてくる喜劇を楽しみたいというのが人情だ。「白い電話」と呼ばれる作品群の成功には、そんな人々の欲望が働いていたはずだ。「白い電話」というファシズム時代の喜劇映画は、市場の掟に従って、この時代の欲望とその行方を映し出しているのではないだろうか。

 

そんな時代に生まれた作品のなかで注目に値するのが、ルキノ・ヴィスコンティのデビュー作『郵便配達は2度ベルを鳴らす』(1943年)だ。今でこそネオレアリズムの端緒と呼ばれ、ある意味で反体制的だと解釈される『郵便配達は2度ベルを鳴らす』だが、上映されたのは第2時世界大戦のさなかであり、ファシズム時代の末期なのだ。それにもかかわらず、ヴィスコンティの問題作が「水子」として流されることなく、たとえ上映禁止までの短い間であったにせよ、映画館での上映にこぎつけることができたのは、どうしてなのか?

 

おそらくは、そこにも市場のルールが働いていたのだろう。このヴィスコンティの映画もまた、うまく時代の欲望を取り込み、観客を映画館に呼び込むようなものだったのだ。たとえば主演にマッシモ・ジロッティを選んだことがある。ジロッティは当時の女性から絶大な人気のあった美男俳優なのだ。そして、そのジロッティをそそのかす悪女の役にクララ・カラマーイを配したこと。カラマーイは、A.ブラゼッティ監督の "La cena delle beffe (1941)” において、イタリア映画史上はじめてバストのヌードショットを披露したことで知られる、いわばスキャンダル女優なのだ。

 

そんな映画のことを告知された当時の観客は、きっと喜んでお金を払って映画館に出かけていったはずだ。もちろん劇場では、ヴィスコンティのリアリズムに戸惑ったのだろうけれど、それでもスクリーンにジロッティとカラマーイの姿を追いかけ、全てを見終わって劇場を後にするとき、ふと自分は何を見たのだろうかと考え直したのではなかったのだろうか。そして、ぼくの想像が正しければ、ヴィスコンティはそのデビュー作によって、「くつろいだ雰囲気のなかで観客にゆるやかな知覚の変容をもたらすこと」(ベンヤミン)に成功したのだろう。

 

話をもとに戻そう。原発事故を題材とした映画『朝日のあたる家』が、独立系の映画館からも上映を拒否されているという話だった。しかし、ひとつの作品が上映されるかどうかは、あくまでも市場が決める。市場を動かしているのは人々の欲望だ。あの事故から2年以上が過ぎ去り、今や人々は早く原発事故のことを忘れたいと思っている。たとえそれがなお現在進行中のものであり、日々のクーラーの温度設定を見る度に、心の隅にひっかかるものだとしても、大丈夫よねと言いながら食品の汚染が気にかかっていても、どうやら多くの人がそのことにはもう触れてほしくないと感じているらしい。だからこそ「原発の映画は入らない」のだ。

 

だとしたら、どうだろう。今、そんな大方の傾向に逆らって、原発問題を正面から撮り上げるように見える映画が、それにもかからわず映画館で上映されるためには、それなりの説得力をもたなければならないのではないだろうか。この映画は、たとえ反時代的であれ、それでも観客が呼べるのだと映画館の主を納得させなければならないのではないだろうか。少なくとも、どこか観客の欲望に寄り添うものがなければ、映画館の主はそれを上映しようとは思わないのではないだろうか。

 

ヴィスコンティの映画にはそれがあった。また、イタリアの終戦直後に発表されたロッセリーニの『無防備都市ローマ』(1945年)だって、当時の人気喜劇俳優アルド・ファブリッツィとアンナ・マニャーニのカップルを起用することで、観客を呼び込めるあてがあった。けれども太田監督の起用した俳優たちはどうだろうか。失礼ながら山本太郎はどうなのか。もう原発問題なんてあまり触れて欲しくないという傾向のなかで、それも原発事故を扱った映画の登場人物としてキャスティングされたこの人のことを、失礼ながら、いったいどれくらいの人がスクリーンに見たいと思うのだろうか。

 

どんな芸術作品であれ、たとえどれほど反時代的で反体制的で革新的な作品であれ、それが作品として生まれるためには、あのヴィスコンティロッセリーニのように、うまく受け手の欲望に寄り添うところがなければならない。フェリーニなんて天才的だ。その絶頂期には、みずからの口車でプロデューサーから配給会社まで、すべての映画関係者に次回作は客が入ると信じ込ませると、さらには観客までもペテンにかけるほどだったのだから。

 

日本では誰がいるのだろうか。

 

映画作品ではないけれど、暗く忘れたい悲惨な経験を巧みに作品のなかに取り込んだ例として、ぼくは村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)を思い出す。この短編集は阪神大震災サリン事件の影響のもとに執筆されたものなのだけど、わざわざ過去の記憶を掘り起こすようなものではない。物語は、あくまでもそんな悲劇の後の時代に生きる主人公に寄り添い、その漠とした不安に耳を傾けながら、少しづつ前に進んでゆく様を淡々と描き出すだけなのだ。そこに押しつけはなく、ただ登場人物たちのまわりで小さな出来事が起るだけの慎ましい短編集にすぎない。けれど読み終わってしばらくすると、ああ、もしかすると自分たちもまたあの震災の後の不安を生き延びようとしているのだな、なんて思っている自分に気づくのだ。

 

村上春樹の短編集が、阪神大震災のトラウマに捕われて硬くなったぼくたちの心なかで何かを少しだけ動かしてくれるものだとすれば、今人気の『あまちゃん』だって忘れてはならない。

 

なにしろこのNHKの朝ドラは、あの津波原発事故以降、不安を抱え続けながら暗い話はもうたくさんだと感じているぼくたちにぴったりと寄り添ってくれているような気がする。そして、なにか明るい光のようなものを見てみたいという気持ち(あるいは欲望)に汲み取るかのように、初々しい主人公たちがアイドルになりたいという無謀な思い込みだけで突き進んでゆく姿を描き出してくれるのだ。

 

けれども、ぼくたちははっきりと感じているのではないだろうか。あのドラマには、見え隠れする悲劇の痕跡(あるいは予兆)があるのだ。例えばそのオープニング。軽快なリズムとともに、おそらくグライダーかなにかにカメラを積んだ撮影したのだろう、人間のものではない視点から映し出される美しい自然の広がる光景は、やがて津波に飲まれ、放射能に汚染されてしまうものにほかならない。

 

それにもかかわらずクドカンの脚本は、悲喜こもごもの人間模様にたっぷりと笑いのスパイスをふりかけながら、あの災害と事故以前の温かかった「逝きし世」を描き出す。そしてその世界が、あの悲劇に一度は中断されながらも、かならずやその後の世界へと続いてゆくはずだという期待を、ぼくたちに抱かせてくれているのではないだろうか。ぼくには、『あまちゃん』もまた、例の「くつろいだ雰囲気のなかで観客にゆるやかな知覚の変容をもたらす」ような作品だと思えてならないのである。

 

そうなのだ。ぼくたちが見たいのは、あの繰り返された悲惨な光景ではない。気持ちを逆なでする映像はたくさんだ。なんとか未来へとすすで行きたいのだが、このままでは不安でいっぱいだ。だから、なにか希望の光を見てみたいと思うのだ。

 

そんな気持ちに寄り添ってくれると予感させる作品があるのなら、ぼくはよろこんで見てみようと思う。ウソでもいい。映画なんてはじめからウソなのだから。現実をしばし忘れて楽しませてもらいたい。その 物語世界に身を任せてしまいたいのだ。そして観客席や、自宅のTVの前でくつろぎながら、あわよくば、心のなかのなにかを少しだけでも動かしてもらえればと思う。不安な時代を生きる伸びるための特効薬なんてないことはわかっている。物事は少しずつしか進まない。だからこそぼくたちは映画館のシートに、ゆっくりと腰を沈めるのだ。くつろいだ雰囲気のなかで、知覚はゆっくりと変容してゆく。そしてうまくすればぼくたちは、自分を捕らえている欲望から解放され、なにか可能性のようなものに開かれてゆくように感じるのだろう。

 

それは漠然として謎めいた可能性だ。けれど、それがあるからこそ、ぼくたちはチケットを買い映画館に足を運ぶのだ。到来する映画の可能性こそが、ぼくたち観客を呼び寄せ、それによって自らをスクリーンの上に投影し、映画は作品としての命をつかみ取るのである。それは映画の誕生の瞬間だ。

 

そうなのだ。ぼくたちは、その瞬間に立ち会うためにずっとチケットを買い続けて来た。それは映画の可能性への掛け金だ。その掛け金は、きっとこれからも払い続けてゆくのだろう。それは市場のルールにしたがって、さらにいくつもの映画を誕生させてゆく。そしてぼくたちは、そのひとつひとつの誕生に立ち会いながら、己の欲望のありかを少しずつ動かしてきたし、これからも動かしてゆくに違いない。それは来るべき世界を静かに準備する。

 

ぼくたちを到来する世界へ開いてくれるような映画。ぼくが見たいのはそんな映画だ。そんな映画が来るときは教えてほしい。きっと映画館に足を運ぶから。ひとりではなく、できれば娘たちも連れて。

 

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