雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

原発は反でも脱でも卒でもなく…

選挙が近づいてます。
 
いろいろ言われてますが、ぼくにとって選挙の争点はやはり「原発」です。原子力発電というものを一体どう考えればよいのか?反対すべきなのか?それとも賛成すべきなのか?
 
ぼくは今まで原発は胡散臭いと思ってきました。あれはヤバいと繰り返してきました。ようするに「反原発」だったわけです。けれどもフクシマでの事故以来、いろいろな人の言葉を追いかけながら僕なりに考えてきて、これはもはや、簡単に反対とは言えないのではないかと思うようになってきました。少なくとも今までのようにただ反対とは叫べなくなってしまったのです。
 
たしか「脱原発」や「卒原発」という言葉もありましたね。ぼくはそれらにも賛成できません。たしかに原発は危険だし、コトが起きたときのヤバさの規模が桁外れです。ぼくは、そんな危なっかしい大規模プラントは、もう少し小規模で効率的で安全な(=危険のスケールが小さな)発電技術にとって代られるべきだと考えています。けれども、あの事故以来、むしろあんな事故が起ったからこそ、そして原発の危うさが桁外れであることを知れば知るほど、もはや「反」や「脱」や「卒」などの言葉を軽々しく「原発」につけることはできない、そう思うようになったのです。
 
考えてもみてください。かりに原発に「反対」し、原発への依存から「脱し」、学ぶものを学んで「卒業」することにしましょう。口で言うのは簡単ですが、言葉だけでプラントを廃炉にすることはできません。そこに行ってスイッチを切ればよいというものではないからです。プラント耐用年数まで使用を継続するにしても、すぐにすべてのプラントを廃炉にするにしても、いずれにしてもそこには専門的な知識と技術が必要です。続けるにしても止めるにしても、そこで知識と技術を持つ人材が働き続けてくれなければ、原子力プラントはどうすることもできません。ぼくたちの誰かが専門家として、技術者として、労働者として、そこに居続けなければならないのです。
 
しかし人間には寿命があります。ひとりの人材がその知識と技術を行使できる期間はそれほど長くありません。30歳ぐらいで一人前になって、60歳まで働いたとして30年。もう少し楽観的に考えても、せいぜい50年がよいところでしょうか。50年ではプラントの廃炉から廃棄物の最終処理まではとても持ち込めませんから、知識と技術は人材から人材へと継承されなければなりません。この継承を可能にするのはプラントや研究施設といった職場であり、教育機関であり、それらを支える社会制度です。そしてこの社会制度を最終的に支えるのが、現在のところは、国家ということになるのでしょうか。
 
ところが国家にも寿命があります。例えばソビエト連邦(1921-1991)は建国から70年で崩壊しましたから、百年も持ちませんでしたよね。近代日本は明治維新(1868)から数えると現在まで145年。アメリカ合衆国は1776年の建国からかぞえてわずかに237年。近代の国民国家体制にしても、その始まりを1648年のウェストファリア条約とすれば、現在までたった365年です(そもそもヨーロッパの国民国家体制は、欧州連合のことを考えれば、もはや崩壊しつつあるようにも見えますけど…)。これからさらに何百年も続くような国民国家なんて、ぼくにはうまく想像できません。
 
しかしながら原子力プラントのことを考えてみると、その廃炉から核廃棄物の処理までの過程は国家盛衰のスケールをはるかに越えてしまうのです。たとえばフィンランドの「オンカロ」(隠し場所)と呼ばれる処分場は、100年かけて施設を満杯にしてから完全封鎖し、それから後廃棄物の出す放射線が生物にとっての安全なレベルに下がるまでの、少なくとも10万年(欧州の基準)はそのままの状態に保っておくのだと言われています。10万年といえばほぼ人類の歴史に相当するスケールですから、気が遠くなります。はたしてどうやって、そんな長い期間にわたって廃棄物を安全に密封しておくことができるのでしょうか?(http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/110216.html
 
もちろん、理論的にはもう少し処理の期間を短くする方法も考えられているようです。Wikipedia の「放射線廃棄物」の項目によれば「再処理+群分離+核種変換(消滅処理)」という方法があるようです。この方法が実用化できれば、比較的短い期間で処理が完了するようなことが書かれています。それでも「100年から500年の監視で天然ウラン並みに放射線が低下して廃棄・資源利用が可能になる」というのですから、やはり世紀のスケールであることには変わりがありません。(http://ja.wikipedia.org/wiki/放射性廃棄物
 
ようするに、今ぼくたちが突きつけられているのは、気の遠くなるような時間スケールの問題なのです。そのスケール感は、おそらく「永遠」という言葉でしか実感できないものではないでしょうか。原発というのは、推進しようが、廃止しようが、卒業しようが、どう扱うにしても、(ほぼ)永遠の期間にかかわる課題です。ぼくたちは、これからも増えてゆく放射線廃棄物の最終的な処理方法をまだ手にしていません。その技術的な解を求め、試行錯誤を重ね、知識を蓄積しながら、世代から世代へとバタンをつないでゆかなければならなにのです。それも、できるだけ遠い未来の世代にまで、ほぼ永遠の相のもとに。
 
こんなふうに書いていると、ほんとうに気が遠くなりそうです。でも、だからこそ、ぼくたちは、もう観念するしかないのではないでしょうか。すでにパンドラの箱は開けられてしまったのです。もはや「原発は怖いから嫌だ」なんて騒いでる段階ではありません(実のところ、そんなふうに言っていたのは僕自身でもあります…)。「低線量被爆」をヒステリックに恐ろしがっているだけでは何の解決にもなりません(実のところ、ちょっとパニック状態になって、子どもを連れて東京から避難したのも僕なのです…)。
 
できればなかったことにしてしまいたい、そんな気持ちは理解できますし、実際、多くの人が忘れようとしているように見えます。けれども、原発がほぼ永遠に続く現実であるかぎり、これからも不吉なニュースが続くことでしょう。突然に線量が桁違いに増えた地下の汚染水のように、ことあるごとにぼくたちの前にどうしようもない現実がその姿を現してくることでしょう。
 
もはや原発はぼくたちの実存状況なのです。もしかするとキリスト教などは、こういうもの指して「原罪」と呼んだのかもしれませんね。パンドラの箱を開けてしまい、楽園を追放されてしまったぼくたちは、もはや原発という「原罪」を背負って生きるしかないのではないでしょうか。
 
おっと、選挙の話でした。
 
それにしても、「原罪としての原発」なんてフレーズを言う候補者なんていましたっけ?