雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

痛いアイドルと切ない大人たち

あまちゃん』の「東京編」の面白さが少しわかってきた気がする。

 

このところ、東京に出たアキ(能年)が、NGを42回も出したり、選挙でランク外になったり(繰り上げ当選するのだが)と、そのダサさを全開にする一方で、北三陸に残ったユイの壊れぶりがどんどん痛々しくなっている(いやあ、橋本愛の “壊れた” 演技はよいね、さすが元 “貞子” )。そして脚本のクドカンは、こんなふうに一方でアイドルの「ダサさ」と「イタさ」を描きながら、その反対側にそのアイドルを作り上げる大人たちの「愚かしさ」と「切なさ」をぶつけてくるのだ。

 

実際、壊れてしまったユイのことを見守る北三陸の大人たちがこんなことを言っている。

 

(ユイちゃんが)東京に行くと切なくなるし、行けなくなっても切なくなる…。おれたちにはどうすることも出来ない。

 

このセリフは三陸高校の揉み上げ教師(皆川猿時がいい味だしてるね)のものだけど、例の琥珀磨きの勉さんが、そこにみごとな注釈を付けてくれる。

 

この距離は永遠に縮まらないべ。

 

そうなのだ。ユイたちのいる場所と、大人たちのいる場所にはいつまでも縮まらない距離がある。その距離を飛び越えて、大人たちは壊れてしまった少女を助けることなんてできないのだ。いや、大人と少女の間だけではない。そもそも人間というやつは、ひとり一人の間にだって、永遠に縮まらない距離がある。その距離にもかかわらず、ぼくたちはその向こう側にいる誰かに目をやらざるをえない。その視線に捕らえられるものこそは、あちら側でどこか神秘的に立ち上がってくる人間の姿にほかならない。

 

だからこそクドカンは、揉み上げ教師にこうつぶやかせたのだろう。

 

結局、ユイちゃんてなんなんでしょうね?

 

この問に、あの駅長大吉と副駅長吉田が声をそろえて答える。

 

アイドルにきまってっぺ!

 

そうなのだ。アイドルとは、人間と人間の永遠の距離が生み出す神秘が目に見える形をまとったものにほかならない。実際、イタリア語の idolo (アイドル)の語源は、ギリシャ語の eidos 「目に見える形」にあるのであり、さらにはあの idea (イデア、観念)と同様に idein (見る)という動詞にまで遡るものなのだ。

 

そんなことを考えていると、ぼくはつい、あのコンメーディア(喜劇)と呼ばれる中世に決別を告げた物語を思い出してしまった。ダンテはその「神的な divino 」という形容詞を授かった『コンメーディア Commedia 』を通して、 14世紀の中世都市の混沌を進みながら(地獄編、煉獄編)、ついにはあのベアトリーチェに出会うことになる(天国編)。この詩聖が見つめていたのはベアトリーチェとは、届きそうで届かない向こう側にいる女性に与えられた名前であり、それゆえに「 Beatrice 人を幸福にする女性」と呼ばれるのだ。

 

それって、なんだか『あまちゃん』に似ていませんか。〈ダサいヤツ〉や〈イタいヤツ〉、〈愚かなヤツ〉や〈切ないヤツ〉が、なんだかワイワイしながら混乱をさらに大きくしてゆくのだけど(そしてその頂点はきっとあの3.11の大災害なのだろう)、それを突き抜けたところにきっとベアトリーチェが待っているのでは、なんて思ってしまうのだ。そしてそのベアトリーチェとは、ぼくたちがかつて愛したアイドルや、これから生まれようとするアイドルのことなのではないだろうか。アイドルというのは、結局そんなベアトリーチェの反復なのかもしれない、なんていう妄想についつい駆られてしまうぼくなのでした。