雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

『カビリア』と想像の共同体

なかなか風邪が抜けない。だからタバコが旨くない。旨くないからあまり吸わない。こういうのが健康的なのだろうか?でもまあ、不健康なことのできる健康のありがたみがよくわかる。はやく不健康なことができる健康を取り戻さなければ…

 

ともかくもそんな状態で、なんとか先週の火曜日、千葉市民文化大学にて講義をこなしてきました。お題は「イタリア映画の昨日・今日・明日(その1)」。もちろんデ・シーカのオムニバス映画へのオマージュ(パクリではありませんぞ…、念のため)。

 

講義内容には『カビリア Cabiria 』(1914年)と『無防備都市ローマ Roma, città aperta』(1945年)を挙げてあり、予定ではこの2本を通してイタリア映画の昨日から今日への流れを語るはずでした。けれども、悪い予感が当たり、結局のところ話せたのは『カビリア』の一本だけ。ロッセリーニの『無防備都市』のほうは、すでに何度も話したことがある作品なので、少しでも触れられればと思っていたのですが、なにしろパストローネの『カビリア』が難物でして、この映画について簡単にさっと解説してネオレアリズムの時代に繋げるだけの力量がぼくにはとてもなかったということです、はい。

 

ジョヴァンニ・パストローネ監督の『カビリア』は、サイレント時代のイタリア映画黄金期の最高傑作のひとつとされている作品。まあ、ジャンルとしては後に「ソード&サンダル」と呼ばれるようになる歴史スペクタクル映画。最近ではリドリー・スコットの『グラディエーター』(2000年)やザック・スナイダーの『300』(2007年)のような、ギリシャ・ローマの古典時代を舞台にする娯楽大作の草分け的存在なのです。

 

とはいってもこの映画、なにしろ1914年公開のサイレント映画ですから、一筋縄にはゆかない。たしかに映画史的には、最初の移動撮影が見られたり、当時の最高水準の特殊撮影が行われたりと、なかなかエポックメーキングな作品でして、例のタヴィアーニ兄弟『グッドモーニング・バビロン』(1987年)で描かれたように、ハリウッドに渡ったGWグリフィスに大いに影響を与えたり、ヨーロッパ中で興行的に大成功をおさめたりしているわけです。ところが、この映画をぼくたちが楽しめるかといえば、そこがなかなか難しい。そもそも、なんの話やらさっぱりわからないところがある。そもそも、タイトルにうたわれたカビリアという女性がどういう人物なのか、最後まで見ても結局よくわからなかったりするのです。

 

だからこそ、この映画を読み解く鍵はカビリアにあるわけですね。きっと100年前の観客には、なんとなくわかっていたのでしょう。でも、ぼくたちにはわかりづらい。カビリアとは本当は誰のことなのか?

 

ちょっと映画が出た当時のことを思い起こしてみましょう。1914年といえば、ちょうど第一次世界大戦の前夜ですね。そして、そのほんの数年前、イタリアはオスマン帝国オスマン・トルコ)とリビアの覇権をかけて闘ったばかりです(伊土戦争 1911-1912)。ご存知の通りイタリアは、19世紀の終わりに国家としての統一を果たしましたが、その内実であるはずの国民の姿が見えなかったために「イタリアはできた、次はイタリア人を作らなければならない」という課題を掲げてきました。この課題が示しているのは、国民国家であろうとしながら国民が欠けている事態にほかなりません。

 

そんなイタリアにとって、1914年という年は、オスマン帝国に対する勝利の記憶がまだ新しく、ヨーロッパで闘われようとしている「大いなる戦争」への国民的な感情が高まっている頃です。この感情は恐れではありあせん。それはむしろ、例の未来派のモットー「戦争は健康をもたらす」というような期待感でした。「戦争が健康をもたらす」というのは、対外的な敵を前にすることで、国内的には健全な統一が生まれるという事態ですね。国内的統一とは、もちろん国民=イタリア人の形成にほかなりません。イタリアは、当時のヨーロッパ列強と肩を並べるべく、困難のなかでもなんとか、あの健全な国民国家 Nation-state を目指していたのです。

 

ぼくの仮説は、カビリアが当時のイタリアにおいて形成されつつあった国民国家を象徴しているのではないか、というものです。そもそもカビリアという名前は、新しい国民国家の象徴となるに十分の新しさと古さを具え持っています。この名前の発案は、映画の字幕も担当し、実質的には作品の広告塔であった文学者ガブリエーレ・ダンヌンツィオです。

 

ダンヌンツィオは政治的には過激なナショナリストですが、その彼が新しいイタリアを象徴するものとして選んだカビリアという名前は、古代ギリシャの秘教祭式で祭られた農耕神 Cabiri にまでさかのぼるものですが、それまで女性の名前としてはほとんど使われてはいなかったものです。だから当時の人々には新鮮に響いたはずですし、同時に、どこか忘れられた古い時代へと結びつく感じもあったのでしょう。このネーミングセンスは、さすがにあの三島由紀夫が惚れ込むだけの大文学者ダンヌンツィオですね。

 

このカビリアという名前を与えられたのは、シチリアカターニャに住む裕福なローマ人の家族のひとり娘ですね。けれども幼いカビリアは、エトナ火山の噴火の混乱のなか、フェニキア人の海賊に連れ去られ、海の向こうの北アフリカカルタゴ(今のチュニジア)で売り飛ばされてしまう。買い取ったのはカルターローという男で、町の守護神が祀られた巨大な神殿に仕える神官です。そこに祀られているのが恐ろしく貪欲な火神モロク。その貪欲さを満たすため、なんと人間の幼子が生贄として捧げられていたのです。

 

もうおわかりですね。ローマ人の幼女カビリアは生贄として買われ、おどろおどろしい異教の火神に捧げらることになってしまったのです。当時の劇場の観客はきっと、そんな不運なカビリアに烈しく同情したのではないでしょうか。われらが国の幼い娘が、異教の神に貪られようとしている!なんとかしなければ…、きっとそんな義憤に駆られたのではないでしょうか。

 

それにしても、こういう義憤の煽り方には既視感があります。ぼくたちの時代の、ごく最近の戦争においても同じような光景をTVで見せつけられた記憶が蘇りますよね。無垢な女子供が蹂躙されているというのは、久しく国民国家の時代となって以来、戦争を始めるときの常套句です。カビリアの危機は、観客の心のなかに国民国家の危機を納得させ、戦争への義憤を高める準備をするものにほかなりません。

 

さて、映画において危機が描かれたとき、観客はその危機が回避されることを期待しますよね。もちろんパストローネの映画においても、むざむざカビリアを死なせることはありません。彼女の危機を救うためにスクリーンに登場するのが、この映画の実質的な主人公フルヴィオマチステです。興味深いのは主人公が2人というところ。フルヴィオローマ市民で、いちおう美男子という設定なのでしょうが、どうも頼りない。大丈夫か、と言いたくなります。頼れるヒーローは、むしろ彼の従者マチステかもしれませんね。筋骨隆々とした怪力男ですが、そんなマチステもまたどこか抜けたところがある。

 

そんなフルヴィオマチステの凸凹コンビは、ちょうどカビリアが生贄にされそうになっているころ、敵情視察のためカルタゴの海岸に上陸します。なにしろローマからから来た連中が、北アフリカの海岸でふらふらしているのですから目立ちますね。この目立つふたりを最初に見つけたのは、幸運なことに、カビリアに付き添っていた乳母でした。彼女はふたりがローマから来たことを察すると、かわいそうなカビリアを救出してくれるように頼み込むのです。

 

もちろん2人はこの申し出受け入れます。そして、乳母の手引きで巨大な神殿に忍び込みます。そこでは大勢の信者が見守るなか、炎の立ち上る異形の神像の腹のなかに子供たちがつぎつぎと投げ込まれてゆきます。子供たちを腹に飲み込むたびに、神像の口からは炎が吐き出されます。このシーンは、実物大の巨大なセットを使っての撮影ですが、なかなかの迫力ですね。

 

フルヴィオマチステの2人は、炎に投げ込まれる寸前に神官の手からカビリアを奪い取ることに成功し、神殿から逃げ出します。けれども、そこは敵の城塞都市の只中ですから、どれだけ逃げ回っても、安全な逃げ場所なんてありません。カビリアカルタゴから連れ出すことができないのです。それでも、フルヴィオのほうは脱出に成功します(なんと高い城壁から海へと大ジャンプ!)。

 

しかし、カビリアを抱いて逃げるマチステのほうは、そうはゆかない。逃げ回ったあげく、宮殿の庭に身分の高そうな美しい女性を見つけます。カルタゴの将軍ハスドルバルの娘ソフォニスバです。将軍の娘がなぜそんな場所にいたかというと、じつはソフォニスバは恋する男マシニッサと密会していたのですね。マチステは、ふたりが秘密の逢瀬をしていることを見抜いたのでしょう。秘密を守りたければ娘を預りなさいと、ほとんど脅迫しながらソフォニスバにカビリアを託します。そして、2人の密会には知らんぷりを決め込んで、みずからお縄となるのです。

 

生贄になることはまぬがれたカビリアですが、結局はカルタゴに取り残されてしまいます。ただ幸いなことに、ソフォニスバから気に入られ、その侍女として仕えることになります。なにしろその父は将軍ハスドルバル・バルカであり、兄はローマ人を震え上がらせたあの名将ハンニバル・バルカなのですから、ソフォニスバの傍はカビリアにとって最も安全な場所なのですから。

 

それにしてもすごい状況ですね。罪のないローマ市民の娘カビリアは今、あの怪力男マチステとともに、モロク神というおどろおどろしい神を祭り、脅威の力を持つ将軍ハンニバルをかかえる城塞都市カルタゴに捕われてしまっている。映画を観ていた当時の観客は、きっと数年前のオスマントルコとの戦争のことを思い出していたはずです。そして、その伊土戦争(1911-12)のときの、北アフリカとイタリアに間に広がる地中海の覇権争いと同じ状況が、スクリーンのなかで、古代共和制ローマと古代都市カルタゴの戦争(第二次ポエニ戦争)として繰り返されようとしていると感じたのではなかったでしょうか。

 

こうして『カビリア』の壮大な物語は、後半の複雑な展開へと進んでゆきます。そして、カルタゴの名将ハンニバルのアルプス越えのシーンによって、あの第二次ポエニ戦争の幕開けを告げるのです。なにせハンニバルの軍勢は、37頭の戦象を引き連れて雪のアルプスを越えてイタリア半島に入り、ローマにまで迫ってきたくるのですから凄まじい。このとき古代ローマの人々の心に刻み込まれた恐ろしい記憶は、きっとヨーロッパの人々に今でも残っているのでしょう。最近の映画でも『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターなんかそうですよね。このハンニバルという名前は、人食い(カンニバル)を連想させるものでもありますが、圧倒的な犯罪知識をもつ殺人鬼の人物像は、やはり恐るべき知将ハンニバルの記憶を呼び起こすものでもあるのではないでしょうか。

 

ところで、普通の歴史書で第二次ポエニ戦争が描かれるとき、圧倒的な敵役がハンニバルだとすれば、ローマを防衛する英雄的人物として登場するのがスキピオ・アフリカーヌス(大スキピオ)ですね。ところが『カビリア』において、この2人はたしかに印象的に登場するのですが、あくまでも脇役の位置にとどまります。パストローネの史劇を展開させるのはあくまでもカビリアであり、その救出に奔走する凸凹コンビのフルヴィオマチステが物語の主人公なのです。そのフルヴィオですが、彼はカルタゴからなんとか脱出した後、ハンニバルに脅かされるローマのために立ち上がると、軍艦に乗ってシチリアシラクサの攻略に向かいます。なぜシラクサなのでしょうか。

 

シラクサはもともとギリシャの植民都市として生まれますが、第二次ポエニ戦争のときにはハンニバルと同盟を組びます。そこでローマは船団を派遣して包囲すると、海からその打倒をはかるのです。この海戦シーンに、当時の観客は、伊土戦争のときのイタリア艦隊を思い出していたはずです。イタリア海軍は、飛行船からの爆撃(史上初の空爆と呼ばれるものですね)もあり、その圧倒的な軍事力によって(リヴィアの)トリポリの町を固めるオスマントルコ軍を打ち破ったのです。ところがこの映画では、そのイタリア艦隊を連想させるローマの船団が炎につつまれ、総崩れとなってしまうのですから、みんなびっくりしたのではないでしょうか。

 

古代ローマの海軍を打ち破ったのは、あのアルキメデスによる伝説的な秘密兵器です。「え、アルキメデスギリシャ人じゃないの?」と思った方もいるかもしれませんね。たしかにアルキメデスギリシャ人なのですが、生まれはシラクサ。そして古代一級の科学者であり発明家でもあります。そんな彼がその知識を駆使して完成させたのが「焼きつくす鏡 gli specchi ustori」と呼ばれる兵器。パストローネはその作品のなかに、太陽の光を集めてローマの船を焼き尽したと伝えられるこの巨大鏡を登場させると、ローマの船団が次々と燃え上がるスペクタクルシーンを展開させるのです。当時の観客の驚きが想像できませんか?「ああ、恐るべきアルキメデスによって、おれたちの軍艦が焼き尽くされてしまった」なんてね。

 

でもまあ、ご心配には及びません。われらが主人公フルヴィオは、アルキメデスの熱線で船を焼かれながらも奇跡的に生き残るのです。そして、海を漂流し、なんとカビリアの故郷であるカターニアシラクサからはそれほど遠くありません)に流れ着きます。カビリアの両親に解放されたフルヴィオは、家族のカビリアへの愛を知ると、ふたたび救出への思いを強くすることになる、というわけです。

 

いやはや、なんとも回りくどい話ですな。

 

さて、そのフルヴィオは再びカルタゴに潜入することになります。とらわれの身だったマチステをなんとか救出することに成功するのですが、カビリアの行方はわからない。それもそのはず、彼女を侍女にしていた将軍の娘ソフォニスバは、愛するマシニッサとの仲を引き裂かれ、なかば強引に近隣の都市キルタの王シュファクスのもとに嫁がされてしまっていたのです。政略結婚というわけですね。もちろん侍女のカビリアも一緒です。だからいくらカルタゴを捜しても見つかるはずがないのです。捕われていたマチステにしても、そんないきさつは知りません。

 

話がだんだん込み入ってきました。カビリアの運命は、一体どうなってしまうのでしょうか?フルヴィオマチステのふたりは、無事カビリアを救い出すことができるのでしょうか?

 

実のところ、こうなってしまってはもはや、カビリアの救出はある程度の偶然にまかせるよりほかありませんね。だから映画は、ここから次々と偶然の出来事を重ねてゆくことになります。

 

まずはフリヴィオマチステに起る偶然です。ふたりはなんとかカルタゴから逃げ出すのですが、砂漠を彷徨っているところを捕虜となり、まさに偶然にも、ソフォニスバのいる城塞都市キルタに連れて来られるのです。

 

次に、その同じ頃に、ハンニバルに唯一対抗できるローマの将軍スキピオ・アフリカーヌス(大スキピオ)がアフリカで攻勢に転じたことがあります。最終的にはスキピオは、ザマの戦いでハンニバルを撃破するのですが、そのあたりの事情は映画ではあくまでも物語の背景として触れられるにすぎません。なにせ主人公はあくまでもフリヴィオマチステであり、舞台は今カビリアがいるキルタの町なのですからね。いずれにせよ、キルタの町もまたローマ軍に包囲されているということが重要なのです。

 

さらに大きいのは、カビリア救出の物語のクライマックスにおいて、本当の意味で主役を演じるのが、カルタゴの将軍の娘にして、今やキルタの王妃となった、あの美しいソフォニスバだということです。だからこそ、この映画において圧倒的なのは、ソフォニスバが見る悪夢のシーンなのです。

 

ローマ軍に囲まれたキルタの町で、ソフォニスバはあの恐ろしい火神モロクの夢を見ます。モロクは彼女の心臓に爪をたてると、その身体を炎のなかに飲み込もうとするではありませんか。そんな恐ろしい夢を見たソフォニスバは、あのカビリアのことを思い出します。そうなのです。本来ならば火神モロクの生贄になっていたはずのカビリアを、彼女は今、自分の侍女として寵愛していることに思い至ったのです。恐ろしさのあまりソフォニスバは神官を呼ぶと、カビリアをふたたび生贄に捧げるように命じます。こうして哀れなカビリアは、またしても火神モロクの生贄となる運命を申し付けられることになるのです。

 

それにしてもびっくりするような展開ですよね。おいおい、カビリアの救出は一体どうなるんだ!そう叫びたくなったのは、きっとぼくだけではないことでしょう。

 

しかしながら、神官たちに連れ去られてゆくカビリアを、偶然にもマチステたちが目にすることになります。マチステたちは、彼女が小さいころしか知りませんから、それがカビリアだとはわかりせん。それでも彼女が、自分たち捕虜に優しく水を分け与えくれた王妃の侍女だということで、心配になったのです。そしてついに、神官たちの強引さを見ていても立ってもいられなくなり、その怪力で牢を破ると、フルヴィオとともに彼女を助けに駆けつけるのです。

 

まあ、ふつうのお話だったら、ここらあたりでカビリアをうまく助け出せることになるのでしょう。けれどもこのサイレント映画は、そんな簡単に話を進めません。マチステとフルヴィオのふたりは、結局カビリアを助け出すことができず、逆にふたりだけで再び地下室に閉じ込められてしまうのです。ただしそこは牢ではない。なんとも幸いなことに、ワインの瓶があり、天上からは干し肉がぶら下がっている食料蔵の中だったのです。いやあ、笑っちゃいますね。さらに笑っちゃうのは、ふたりで酒を飲み肉を食べ始めるところ…。

 

まったく、こんな調子で話を進めていて、あの可哀想なカビリアを救うことなんてできるのでしょうか?

 

ともかく、もはやフルヴィオマチステにカビリアを救うことはできません。その救出に道を開くのは、大スキピオの率いるローマ軍の攻勢で、ソフォニスバの夫にしてキルタの王シュファクスが命を落とすという出来事なのです。王の死によって戦意を失ったキルタは町を開城し、スキピオの軍勢が町になだれ込みます。戦利品を求めて次々となだれ込んで来るその姿に、あのソフォニスバは恐怖します。ところが、彼女の目の前にあらわれたのは、かつての婚約者マシニッサではありませんか。彼はキルタの王と同じヌマディア人でありながら、大スキピオと手を結んで闘っていたのです。ソフォニスバにとっては思いがけない幸運ですね。なにしろ、まだ彼女のことを愛していたマシニッサは、ただちに彼女の前にひれ伏すと剣を捧げて、愛と忠誠を誓うことになるのです。

 

みなさん大丈夫ですか?話についてこられてますか?

 

このあたりで、一度話を整理しておきましょう。ポエニ戦争というのは、正確にいうとローマ人 vs ポエニ人の戦争ですね。ポエニ人とは、フェニキア人のローマ人からの見たときの呼び方です。ようするに、ローマ人の都市ローマと、フェニキア人の都市カルタゴの戦いなわけです。そして、今問題になっているソフォニスバは、カルタゴの将軍の娘ですからフェニキア人ですね。ですから、ローマ人からすると敵国の大将の娘になるわけです。しかしながら、彼女が嫁いでいったキルタは、ヌマディア人の都市です。その王はカルタゴと手を結んで闘っていたのですが、かつての婚約者マシニッサは、同じヌマディア人でありながら、スキピオと手を結んでいたのです。というわけでスキピオは、マシニッサに命じて同じ民族の都市キルタを攻めさせたというわけなのです。

 

というわけで、マシニッサはかつての密会の相手ソフォニスバと再会することになります。愛しあう2人が再会したのですから、それだけならばめでたしめでたしというところですが、そうは問屋が卸しません。ソフォニスバは、なんといってもローマにとって大敵カルタゴの将軍の娘なのです。さすがのスキピオも、マシニッサのソフォニスバへの愛や忠誠を認めるわけにはゆかない。おいおい、お前はローマと同盟したのだぞ。フェニキア人は敵なんだぞと諭されたマシニッサは、泣く泣くその愛を諦めざるをえなくなってしまうのです。

 

ここでようやく、我らが主人公のフルヴィオが再び登場します。しかしながら、彼はとくに英雄的な仕事をするわけではありません。すでに解放されローマの軍服を来てふらふらしていたフルヴィオは、ソフォニスバを諦めたマシニッサに呼び止められると、彼女への伝令を頼まれます。ローマ兵の彼がフェニキア人の王妃のところに行くわけにもゆきませんから、従者マチステが呼ばれます。マシニッサマチステに、ソフォニスバへの贈りものを託します。王族ならばこの贈りものを受けとってくれという言葉とともに託された贈りものとは、じつは毒薬でした。マチステからその贈りものを受けとったソフォニスバもまた、それが毒だとわかりながら謹んで受け取ります。そして、その毒を杯に移すと、なんと一息に飲み干してしまうではありませんか。

 

今時の映画なら、毒を飲み干した者は、たいていの場合、すぐに死んでしまいますね。しかしながらこのサイレント映画は、毒を飲み干してからが見せ場となります。なにしろソフォニスバは、苦しみにもだえながらも、あのカビリアを呼びよせるように命じると、ようやくスクリーンにカビリアがその容姿をはっきりと登場させるのです(なにしろここまでは、後ろ姿とか、髪を振り乱した姿とか、連れ回される姿し写りませんでしたからね)。毒に苦しむソフォニスバのところに駆け寄るカビリア。その表情に恨みは見当たりません。きっと自分を寵愛してくれた優しい王妃の姿だけが写っていたのでしょう。そんなカビリアに、ソフォニスバが告げます。もうおまえはモロク神に犠牲になる必要はない、自分がその犠牲になるのだから、と。

 

字幕の助けを借りてとはいえ、そのすべてを表情とジェスチャーだけでこなしてしまうのですから、このソフォニスバを演じた女優イタリア・アルミランテ・マンゾーニの演技は圧巻です。その死の床のまわりにいるのは、カビリアだけではありません。従者や神官たちに加えて、マチステとフルヴィオもいます。まさに大円団のフィナーレですね。

 

エピローグはカビリアの故郷への船旅。そこにはもちろんフルヴィオマチステが付き添います。このときフルヴィオは、今さらながらにカビリアが美しい娘であったことに気づいたようですね。なんと彼女に言い寄るフルヴィオの姿。そんな2人を「おやまあ」と見守るマチステの顔。そのすべてを祝福するかのように、まわりを天使たちがぐるぐると回り始めると、FINEの文字が浮かび上がります。

 

どうですか?すごい映画でしょう。ぼくは、ラストシーンの天使たちの姿に思わず笑ってしまったのですが、当時の観客はきっと感動したのだと思いますよ。「おお、天使が現れた!」ってね。

 

それにしても、カビリアとは誰だったのでしょうか。とらわれの身となったこのローマの娘は、結局のところ、フェニキア人の王妃ソフォニスバの死によって解放されることになります。カビリアを、ローマ共和国の象徴だと考えるなら、ソフォニスバはカルタゴの象徴ですね。その後、このフェニキア人の町はローマ人たちによって徹底的に滅ぼされることになるのですが、それはあくまでも後日談。この物語に限って言えば、ソフォニスバといういわば「カルタゴの女神」は、あくまでもこの映画の主人公であり、最大の敬意を持って描かれているように感じられます。もちろん、天使たちが祝福するのは若いカビリアなのですが、存在感はソフォニスバが圧倒的です。

 

おそらく『カビリア』の時代は、まだそういう時代だったのでしょう。重要なのは、フェニキア人たちが異教徒して描かれながらも、ただ恐ろしいだけではなく、それなりに歴史を持ち、それなりに話のわかる人々として描かれていることです。もちろん彼らは滅びゆく古い人々であり、未来が明るいのはローマ人の若くて美しいカビリアと、そのまわりの人々ではあるのですが。

 

いずれにせよ当時の人々にとってカビリアのイメージは、当時のイタリアの姿と重なってゆくものだったのだと思います。カビリアを祝福する天使の図像は、若い国民国家としてのイタリアを祝福する図像にほかなりません。けれども同時にその背後に、 毒をあおったソフォニスバのイメージがつきまといます。なにしろ、ソフォニスバの死がなければ、カビリアは救われなかったのですからね。おそらくソフォニスバと異教の人々の姿は、 当時のヨーロッパの人々が見た北アフリカの人々(オスマン朝)に重なるものだったのでしょう。 それを、恐ろしくも荘重に描いているところが、この映画の時代性なのかもしれません。

 

最初の問に戻りましょう。カビリアとは誰だったのでしょうか?ぼくはそれを、危機に瀕しながらも生き延びようとする若い国民国家(=イタリア)のイコン(図像)だったと考えます。このイコンは、世紀の初頭の最も成功した映画的表象のひとつとして、あの「大いなる戦争」(第一次世界大戦)を直前にしていたヨーロッパの人々に受け入れられることになりました。しかし、この「大いなる戦争」において、ヨーロッパは期待されたいた「健康」を手にすることはできません。なぜなら、国民国家がその全面化を果たしたとき、同時にその限界と矛盾を露呈させることになるからです。

 

こうしてヨーロッパは新しい時代に突入することになります。それを「昨日の時代」から「今日の時代」へと呼ぶならば、『カビリア』という映画は、あのソフォニスバの姿とともに「昨日」をひきずっていたのかもしれません。だからこそ、戦後(第一次世界大戦後)、一世を風靡したイタリアの歴史スペクタクル映画は廃れてゆきます。人々はもはや、そんな映画を見たいと思わなくなっていたのです。

 

では、映画館では一体にどんな映画が求められるようになっていったのでしょうか?そのあたりのことを詳細に論ずるような準備はありませんけれど、一応ぼくの仮説を言ってしまいましょう。きっとそれはソフォニスバのような理解を超えた異教の女神ではなく、カビリアとフルヴィオの後日談なのではないでしょうか。

 

ソフォニスバという存在は、国民国家の外部をいやおうなく指し示してしまいます。こういう話が理解できるのは、当時の人々としては高い教育を受けたインテリですね。ある意味でサイレント映画は、そんな人々を対象にしているところがあります。なにしろ、字幕が読めなければ映画は楽しめませんからね。けれども映画はますます普及し、字幕を読む弁士たちが登場し、やがてトーキーの時代に入ってゆきます。トーキーとなると、もやは文字が読めなくてもかまいませんから、映画は一気に大衆化してゆきます。こうなると、観客が求めるものは、こむずかしい国民国家創設の神話ではなく、もっと日常的でわかりやすく楽しいお話となりますよね。

 

トーキーの時代、イタリアで人気のあった映画はコメディ映画です。日常の人々の生活に密着するコメディこそは、まさに国民的映画となってゆくことになるのでしょう。このあたりに「白い電話」とよばれる喜劇映画とファシズムの関係を読み解く秘密があります。ぼくはそんな喜劇映画を「想像の共同体(B.アンダーソン)」の映画的イメージとでも呼んでみようと思います。そして、そんな視点から『カビリア』を振り返ってみると、そこには「想像の共同体」の映画的イメージが、カビリアとソフォニスバという矛盾する要素を渾然と抱えながら、その原初的な姿のままに様々な可能性へと開かれているように感じられるのです。それは「想像の共同体」に取り込まれることなく、映画がまだ潜勢力として保持している可能性にほかなりません。

 

 


Cabiria (1914) FULL - YouTube

 

 

追記

・興味深いのは、フロベールの『サランボー』(未読)におけるカルタゴフェニキア人)への言及との比較でしょうね。モロク神なんかも登場するみたいですし。フロベールが19世紀のトクヴィルなどと同じ「憂鬱なる世紀」の作家であることは、きっと大きな意味があるはず。まさにロマンティシズムにおける『サランボー』をどう考えるか、という問題ともからんできますね。

 

・現代のイタリア映画でも、例えば『海と大陸 Terraferma 』などは、まさにポエニ戦争の現代版とも考えられますね。移民の時代とは、まさに北アフリカがヨーロッパを襲う時代なのではないでしょうか。

 その意味では、イタリア代表のマリオ・バロテッリは興味深いですね。なんだか彼は、現代のマチステのように思えます。

 

・『カビリア』の夢のシーンは、面白いですよね。夢についての映画を考えるなら、あの夢は少し考えてみる必要があるのかもしれません。その夢とソフォニスバの自殺によって、ザマの戦いの戦闘シーンをシンボリックに代替する手法は非常に興味深い。実のところ、ぼくはここにザック・スナイダーの『エンジェル・ウォーズ Sucker Punch (2011) 』を思い出しました。

 

・夢についての映画としては、次回の火曜日の第2回講義に予定しているフェリーニの『8 1/2』に繋がってゆくのでしょうかね。うーん、どうんなふうに繋がるのでしょうかね。そもそも繋がるのかどうか?おお、もう日数がない。困った、ちゃんと考えないと…

 

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