読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

運命的反復について(教室で思ったこと)

ぼくは授業の冒頭に Buongiorno, come state? (おはよう、みんな元気?)を繰り返す。授業が終われば教室を出てゆく学生たちに Arrivederci(また会おう) を繰り返す。この繰り返しによって「刻み込まれたもの quello che è insegnato (教えられたもの)」が、ずっと先の将来に、すっかり忘れられていながらも、なんらかの偶然によって、だれかの身の上によみがえることを期待しながら。それをぼくは、運命的反復と呼ぼうと思う。

 

教育の目的は、この運命的反復を準備することにある。ああ、これって昔習ったことがあるな、ああ、これってもしかすると知っていることかも、という既視感がよみがえるとき、人はなにか運命的なものを感じるのだ。しかし間違えてはならない。運命的なものは、あくまでもそのときにはじめて感じられるものなのであって、その前からあるものではない。その前からあるものは、あくまでも将来の反復を準備する反復、つまり「刻み込み insegnamento (教えること)」だけなのだ。

 

それは、オイディプスが経験したことでもある。「父を殺し、母と交わる」という予言をすっかり忘れていたオイディプスは、その運命のとき予言が実現したことを知るというのがあの悲劇のあらすじだ。しかし、事態はむしろ逆だったはずだ。オイディプスは、目の前に起った事態に、かつての予言を思い出し、あたかもそれが実現したものと錯覚したにちがいない。予言されたコトが時空を超えて目前に出現したとき、そこに彼は予言の実現を見ておののいた。しかし、そのおののきは、みずからの自由意志の及ぶ時間と空間を超えるところに働くなにものかを、錯覚的に想像してしまったことから来たものなのだ。なにか超越的なものの働きを錯覚的に想像するとき、ひとはそれを運命と呼ぶのである。

 

運命的反復とは、おもいがけない反復が、超越的なものとしての運命を錯覚的に想像させるような事態のことだ。デジャヴーと呼ばれる現象もまた、この運命的反復のひとつなのだろう。かつて観たものを、すでに観たことがあるものを、再び見ているという感覚。それは運命のように不思議な感覚だ。しかしそれは、運命がそうであるように、あくまでも錯覚にほかならない。ぼくたちにとって本質的なのは、錯覚や想像力によって立ち上がる運命やデジャブよりも、それを立ち上げてくれる反復のほうなのではないだろうか。

 

反復がないところに運命はない。反復的な分節化の生じないところに言語はない。詩もなければ、文学もない。反復的な描線や彩色がないところに絵画はない。反復的なリズムやメロディがないところに音楽はない。反復的なイメージがないところに映画はない。 あらゆる人間的な表出は、それが分節的反復、反復的分節をめざすかぎりで、運命のような超越的な錯覚を立ち上げてゆく。それはぼくたちをおののかせ、おどろかせ、つき動かすような反復だ。そういうものが、ぼくの考える「運命的な反復」なのだ。

 

おそらく建築においても同じことが言えるのだろう。空間を反復的に分節化することがなければ、建築は生まれない。どこか異国の地で、かつて来たことがあると感じるものも、そこに反復的な分節化、分節的な反復が見出されるからだ。それは、かつてひとつの建築的空間において反復されていたものが、時を経て遠く離れた未知の空間において反復されることにほかならない。それは、運命的なもの=超越的なものを呼びこみ、ひとの心を揺り動かす。しかし、その感動は超越的な運命によって説明されることはない。運命とは感動の言い直しにすぎないからだ。運命とは「心動かされるような状態」の言い換えであり、結果を結果によって説明することはできない。建築的な経験を可能にするものはただ建築的な反復にほかならない。反復こそが建築的経験を可能にする。だからこそ建築もまた、この運命的反復を目指すのである。

 

詩や、文学や、思想や、建築など、あらゆる芸術作品がこの運命的反復を目指すとき、その反復を可能にしているものは技術なのだろう。反復可能な技術が、運命を呼び込むように働いてゆくのだ。そんな技術の結果として、錯覚的に呼び寄せられる運命=あるいは超越的なものは、あくまでも錯覚でありながらも、ある種の幸福あるいは不幸を感じさせてくれる。その錯覚のことを、ぼくたちは意味と呼んでいるのだ。