雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

「おら、東京さ行くだ」

あまちゃん オープニングテーマ/ロングバージョン

 

 

「おら、東京さ行くだ」と言って、ついにアキが東京へ旅立った(正確には "東京に戻る" )。それにしても土曜日の第一部「故郷編」の最終回はお見事でした。備忘のためにも、その見事さについて記しておきたい。

 

まずは春子/小泉今日子のセリフから。

 

あの子たちは幸せよ、みんなに祝福されてさ。わたしのときなんか、母親も来なかったんだから。

 

最初は反対していた北三陸の人々だが、アキとユイの気持ちを知ると、まずは海女クラブのおばさんたちが、それから夏ばっぱが、最後には春子までがアキたちの東京行きを応援する側に回ることになる。そして、そうと決まったとき、小泉今日子が口にするのが上のセリフだ。

 

じつはこのセリフ、最終回のみごとな別れのシーンの伏線となっている。春子=小泉のコトバを、いつものように琥珀を磨きながら聞いていた勉さん(塩見三省がいい味を出している)が、ハッとした顔をしているではないか。この人がハッとした顔をすると、いつも何かが起る。そして今回もそれが起るのだ。その勉さんが、ちょっと言いにくそうに口をひらく。

 

夏さん、ちゃんと見送りしてたんだ。ホームじゃなくて、浜で。

 

おどろいたのは春子だけではない。喫茶リアスの常連の誰もが、そんな事があったなんて知らなかったのだ。聞けば勉さんは、夏ばっぱ(宮本信子)に口止め料として昆布をもらっていたので、25年間黙っていたのだと言う。けれども、春子が東京に行く日、たしかに母の夏は浜で大漁旗をふってこう叫んでいたのだ。

 

がんばれ、春子、行って来い、万歳!

 

それにしても、と春子がいぶかる。「じゃなんで、わたし気がつかなかったんだろ?」。とういうのも、彼女はあの日、東京に向かう北鉄の車窓から、ずっと母の姿を探していたのだから。そんな春子のコトバに、今度は大吉がハッとした顔をする。なぜ春子が浜で見送る母を見つけられなかったのか、その理由に思い当たったのだ。「ごめん、おれが話しかけたからだ」と謝る大吉。あの時、春子は浜の見える窓辺に座っていたのだが、「なんで東京に行くんだ?」と詰め寄る大吉を振り払うかのように、席を移動していたのだ。

 

とまあ、このあたりまでなら並の脚本家が考えそうなことなのだが、クドカンが面白いのは、この「良い話」をたんに「良い話」で終わらせないところ。まずは、事実を知った春子のセリフを、こんなふうにあえて少し臭く脚色する。

 

ずっと、うらんでた。もしもあのとき、お母さんが笑顔で送り出していたらって。

 

このセリフにうなずく大吉は、こうだ。

 

笑顔で送り出してたんだな…

 

その大げさな頷き方が、臭さを通り越えて笑いへと向い始める。続けて、春子がコトバにならない思いをコトバにする。

 

あ、なんだよ、なんなんだよ、もおうー

 

小泉にこのセリフを言わせると、実にハマる。それだけで面白いのだが、クドカンは大吉のセリフでこうたたみかける。

 

大吉、お前はバカ、大吉、このバカ!

 

爆笑だ。大吉=杉本哲太が自分を責めてみせる名演技には、誰も笑いを抑えられなのではないだろうか。良い話なのだけど、笑わせてくれる。そんなクドカンの脚本、じつによい。けれども、こんなのはまだ序の口。土曜日の最終回は、この「良い話」を爆笑へと転倒させる一本背負いが、次々と繰り出されてくるのだからたまらない。

 

ちょうどそのころ、アキ/能年玲奈も、母親が乗ったのと同じ三陸鉄道で東京へと向かっている。そしてあの時と同じように、夏ばっぱ(宮本信子)は駅の見送りに姿を見せず、あの時と同じ浜で、あの時と同じ大漁旗をかまえて列車を待っているのだ。

 

そして今、その浜に列車がさしかかろうとするところで、窓の外が気になるアキに、あろうことか、あの時に大吉がしたのと同じように、ぼうっとした副駅長の吉田(荒川良々のぼうっとした演技が、これまたよい)が話しかけようとしているではないか…。

 

ダメだ、ダメ、そんなことをしたら、あの時と同じように、アキも夏ばっぱの見送りを見逃してしまう!ああ、運命はまたしても繰り返すのか?なんてぼくたちに思わせるところが、クドカンの脚本の良さ!いやあ、この人、運命的な反復が物語のなかでどれほど効果的かを、実によくご存知のようですな。

 

でもそれだけじゃない。この脚本家は、運命を出来事の反復において際立たせるだけでは、単なるお涙頂戴ものに堕してしまうことをよくご存知のようだ。なにしろ運命ってヤツは、そもそも偶然の連鎖のようなもの。だから運命的な反復だって、ほんの少しの偶然で内容を反転させてしまう。だからクドカンは、貸し切りのはずの列車に、どこからか振って湧いたように普通のおばちゃんを紛れ込ませてみせる。そして、そのおばちゃんが、列車がまさに夏バッパが大漁旗を振る浜にさしかかろうとする瞬間、ぬうっと現れると、副駅長吉田/荒川良々にこう声をかけるのだ。

 

あの~、シッコ行きたくなったんだど…

 

「おばちゃん、これ貸し切りなんだけど…」とあきれる副駅長の吉田/荒川。そして、運命を反復させるはずの重要な役割を担った彼が目の前から離れた瞬間、アキは気になっていた車窓の向こうに視線を戻す。そこには、浜で大漁旗を振る夏ぱっぱの姿。やったぞ、間に合った!というぼくたちの共感は、運命的な反復が寸でのところで食い止められたことによって、ぐっと増幅されるのだ。

 

それにあるのは、運命とそこからの自由という2つの相反するモーメント。けれどもそれは物語の楕円構造の二つの焦点となって物語を活性化するものでもある。運命というヤツは、反復のなかで姿を現すのだけれど、あたかも反復が運命であるかのように装いながらも、そこには少しずつズレが織り込まれてゆくと、そのズレによって反復の意味が転倒され、それまでとは違う結末が飛び出してくる。それがぼくたちに、運命からの解放、つまり自由を感じさせるのだ。

 

おっと、脱線から話を戻そう。アキ(能年)は、母親(小泉)が見ることのなかった夏ばっぱ(宮本)の大漁旗に見送られながら、東京に向かうことになる。しかし、それだけなら「それはよかったね」というぐあいに、いつものNHK的な良い話に終わってしまう。そもそも、まだ6月なのだから、こんなところで終わられてしまったら困る。それにクドカンは、みんなに祝福されながら見送られたアキとユイがそのまま東京に出て行ったのではおもしろくないと思ったのだろう。最後にきちんと「良い話」をぶっ壊してくれる。

 

そう、観た方はみなさんご存知とおり、一番東京に行きたがっていたユイ(橋本愛)が、アキと一緒に行けなくなってしまうのだ。まあ、金曜日あたりにユイの父親(平泉成)に「頭がいたいな」なんて言わせていたから、予想はできたのだけど、わざわざこんな場面にその発作のシーンを挟み込んでくるところが、じつにいやらしい(=効果的)ではないか。

 

こうして、ユイについてゆくはずだったアキが、たったひとりで東京に向かうことになる。「すぐ行くからね」と叫ぶユイの声を合図に、またしても列車はホームを離れて走り出す。つい今しがた母親に見送られ、祖母に大漁旗を振ってもらったアキは、ここでまたしても、ユイの哀しい別れの声に見送られるわけだ。すごいね。ここまでにアキは、すでに別れのシーンを2度繰り返している。母の春子の回想シーンを入れると、別れのシーンはさらに2つ増える(ホームの見送りと浜から大漁旗を振った見送り)。そしてこの最後のユイとの別れのシーンによって、ぼくたちはとどめを刺されてしまうのだ。まいった。

 

それにしても、最後のシーンは模範的な別れのシーンだ。 フェデリコ・フェリーニの『青春群像』(1953年)や、そしてデヴィッド・リーンの『旅情』(1955年)のラストシーンを思い出してしまう。そこでの基本は、ホームを離れて行く列車。そしてその列車には後ろ髪を引かれながら旅立つ者がいて、ホームには後ろ髪を引いてやまない誰かがいること。それでも列車が、いつものように定刻通りに出発するとき、ぼくたちは反復する運命と同時に、運命からの解放を感じ取ることができるのである。

 

いやあ、すごい脚本じゃないですか。ちょっと、ほめ過ぎかな?