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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

中味のない人間

読書 もろもろ

まずは東京新聞のこんな記事から。

 

自民党の高市早苗政調会長は十八日、原発の再稼働について「東京電力福島第一原発事故で死者が出ている状況ではない」として、原発再稼働を主張した自らの発言について「誤解されたなら、しゃべり方が下手だったのかもしれない」と釈明した。ただ、震災関連死を無視するような言葉だけに、与野党から厳しい批判を浴びている。 (http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013061901001491.html

 

この件について、フジテレビの「とくダネ」のなかで、デイブ・スペクターが面白いことを言っていた。高市香苗のことを安倍総理のイエスマンだと言いながら、こう続けたのだ。

 

高市さんは、ぼくもよく知っているんですが、自民党に入らなければ、こんなことは言っていないですよ。

 

デイブはときどき面白いことをいうのだけど、この言葉はなんだかすとんと腑に落ちた。そうか、彼女はきっと「まじめ」な自民党員として、「優秀」な政調会長であろうとして、あんなことを言ってしまったのだ。

 

幸いなことにぼくたちは、彼女のように「優秀」ではないし、「まじめ」ではない。だから、あの原発事故で「死者が出ている状況ではない」なんて口にしようなんて思わない。きっと高市政調会長も、政調会長とか自民党党員なんていう立場がなければ、わざわざ「死者が出ている状況ではない」なんて口にすることはなかったのだろう。

 

けれども、彼女は今、安倍政権の中枢にいる。「まじめ」に政調会長の責務をまっとうし、できることなら「優秀」であろうと努力している。なんとか原発の再稼働を望む経済界の意向を汲み取ろうとしてやっきになっている政権の中枢にあって、「まじめ」で「優秀」な政調会長のすべきことは何か。もちろん原発の再稼働を支援することだ。

 

原発がひとたび事故を起こしたとき、どんな状況になるか高市早苗が知らないはずがない。感じなかったはずがない。おそらく、ぼくたちと同じように驚き、恐れ、不安に苛まれたはずだ。けれども、彼女は不幸なことに、「まじめ」で「優秀」だったのだ。日本経済再建のために奮闘する政治家たるべく、胸の内に感じているはずのザワザワとした感覚をみごとに封じ込め、安倍政権がやろうとしていること、自民党がやろうとしていること、経済界がやりたがっていることを、まさに文字通り受けとめて、その「優秀」な頭脳でこう考えたのだろう。「あら、いやだ、あの恐ろしく思われた原発事故では、直接の死者がひとりもいないんじゃない!この優秀でまじめなわたしが知らなかったことなんだから、きっとみんなも知らないわ。これはぜひともみんなに教えてあげなくっちゃ!」

 

こうして高市早苗は中味のない人間となった。中味のない人間は総じてまじめで優秀なのだ。胸の内にある消しても消しきれない、忘れようとしても忘れられないザワザワした感覚を、まじめに努力しながらコツコツと消し去ってゆき、ついには見事に中味のない人間となって、どんな色にも染まれるようになる。優秀なイエスマンになることができる。そうなのだ。そんな努力なしに、あの福島原発事故のことを「死者が出ている状況にない」とクチにするなんて、できるはずがないではないか。

 

問題は、ぼくたちのまわりに、そんな「優秀」で「まじめ」な中味のない人間が増えてゆくように見えることだ。そうじて「優秀」で「まじめ」な彼らは、それ相応のポストにあって政治経済の舵取りをしている。彼らは、胸の奥底でザワザワする感覚を抑え込みながら、こつこつ努力して中味のない人間となり、あの人は「優秀」だという評価をバネにますます努力するのだ。

 

まったく、ため息が出ますな。

 

でも、ぼくはここで、ひとりの思想家のことを考えてしまう。高橋源一郎加藤典洋が語ってくれる吉本隆明だ。この「やんちゃ」な小説家と「不器用」な評論家が語る吉本は、自分の胸のザワザワをけっして否定することなく、つねにその感覚に立ち戻りながら、詩とか論理とか哲学とか思想とかいうものも、つねにその感覚から立ち上げようとしてきた人だという。高橋と加藤はそれぞれ、吉本という思想家が、常にじぶんの感覚的な経験、言語化される前の経験に立ち戻りながら、うまく書かれた言葉を拒み、閉ざされた理論を開きながら、詩を、理論を繰り出してゆく姿を捉えようとしている。

 

吉本隆明がぼくたちに遺したもの』を、ぼくはそんなふうに読みすすめている。高橋と加藤は、あの原発事故のあとの闇を照らす数少ない光のなかの2条だったのだけど、事故の後もなお「原発を棄てることはできない」と言い張った吉本隆明に立場の違いを越えて寄り添いながら、その言葉の文字面の向こう側に広がる可能性を語ってくれているのだ。

 

そんな吉本隆明のことを考えているときに、耳に入ったのが高市自民党政調会長の「失言」。それは、3・11以降の生き方とか考え方を深めるようにと、ぼくにどうしようもなく迫ってきたわけだ。

 

そうなのだ、ぼくたちはもう少し、自分の身体の奥底からかすかに聞こえる声に耳をすませるべきではないか?どうしてそれができなくなってしまったのだろうか?「まじめ」に目の前の人間の顔色を読み取ることに「優秀」たろうと努力するのではなく、もっと「やんちゃ」で「不器用」に、もっと身体的な感覚に足を取られながら、つまづきながら〈ひと〉の顔に向き合うことができるような生き方、考え方、話し方をさぐってゆくことが大切なのではないだろうか?そもそもぼくたちの中味の有り様とはどういうものか、もう一度立て直してゆくためにも、中味のない人間へと駆り立てるあの神聖なるものを冒瀆し、転倒してゆかなければならないのではないだろうか?

 

そんないくつもの「?」に、もっとこだわってゆくことが必要なんだよな… 

 

みなさん、そうは思いませんか?