雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

5本の指みたいな共同体

 なあ、おれたちはある意味、パーフェクトな組み合わせだったんだ、5本の指みたいに。(170頁)

 

 かつて多崎つくるには居場所があった。5本の指みたいな「パーフェクトな組み合わせ」と呼ばれるものがそれだ。

 

 始まりは公立高校一年生の夏だったという。つくると仲間たちの5人は、社会の課題でボランティア活動で知り合いになる。その内容は小学生の通常授業についてゆけない子供たちのための学習支援。彼らは3日間のサマーキャンプに参加すると、作業の合間に率直に語り互いを心を開く。そしてキャンプが終わる頃には、それぞれが「自分は今、正しい場所に居て、正しい仲間と結びついている」と感じていた。そして夏が終わっても、5人は親密なグループであり続け、自主的な活動を続けることになる。そのころのことを、多崎つくるはこんな言葉で説明している。

 

 僕らの間には、口には出されないけれど、いくつかの無言の取り決めがあった。「可能な限り5人で一緒に行動しよう」というのもそのひとつだった。たとえば誰かと誰かが二人だけで何かをしたりするのは、できるだけ避けようと。そうしないとやがてグループがばらばらにほどけてしまうかもしれない。僕らはひとつの求心的なユニットでなくちゃならなかった。なんて言えばいいんだろう、乱れなく調和する共同体みたいなものを、僕らは維持しようとしていた。(20頁)

 

  それにしても、ボランティア活動の延長にすぎない、たった5人のグループが、なぜに共同体と呼ばれるのだろうか。それも「乱れなく調和する共同体」とは!

 

 ヒントはおそらく、つくるを除く4人の色彩にある。その名前の中に色の感じがない多崎つくるだけが「色彩を持たない」が、それぞれにアカ(赤松慶)、アオ(青海悦夫)、シロ(白根柚木)、クロ(黒埜恵里)と渾名がつく他の4人。なぜ赤、青、白、そして黒の4色なのか?考えみると、ふと思い当ることがある。1949年生まれの村上春樹は、決して直接的に描くことはないが、あの学生運動の世代(全共闘世代)だ。そしてこの4色は、それぞれ新左翼とよばれる学生たちのグループがヘルメットにほどこしたシンボルカラーではないか。

 

 調べてみれば、赤いヘルメット(赤ヘル)は共産主義者同盟(共産同、ブント)のシンボルカラー。青ヘルは社青同解放派解放派、青解〈アオカイ〉)。白ヘルは、そこに黒字で「Z (ZENGAKUREN) 」の略)とあれば革マル、黒字で「中核」とあれば中核派。そして黒ヘルは、共産主義の「赤」に対して無政府主義の色であり、アナーキストノンセクトラジカルなどのグループのシンボルだったという。

 

 さらに、この4色が新左翼それぞれグループのシンボルだったとすれば、「色彩を持たない(colorless)多崎つくる」は、学生運動の只中で無関心を決め込んでいたノンポリ(non-political の略)と呼ばれる学生を思い出させる。この連想に根拠を与えてくれるように思えるのが、つくるが自分に色がないことを引け目に感じているという描写だ。

 

 政治的に「色がない(colorless)」ことは、今ではむしろ当たり前のことだけれど、当時としてはある種の引け目意識を強いるものだったようだ。たしか村上春樹自身、なにかのインタビューで当時の運動に対する違和感を語っていたと思うが、そのときの口調は多崎つくるとそっくりだったような気がする。

 

 けれども、その時代のことを語る村上春樹のインタビューにしても、ほかの誰かのものにしても、ぼくのように同じ時代を知らない者にとっては、色があったりなかったりするという感覚は、なかなかうまく実感できない。それは誰もが何らかの政治的色彩、あるいは党派色を帯びていた時代だ。想像するに、そこで政治的無関心を表明することは、ちょうどキリスト教世界で無神論を主張するような立場に立つことではなかったのだろうか。

 

 神を信じる人々の前で、神への無関心を表明することは、ある意味で信仰の否定だが、もう少しひいて考えれば、過激な信仰表明(神はいないという信仰)でもある。信じようと否定しようと、それはあくまでも信仰の問題のなかにある。この感覚もまたぼくたちには理解しづらい。それを感覚的に理解するためには、一度、自分たちがどっぷりひたっている世界の外に出る経験が必要なのだろう。例えば、海外で宗教をたずねられ、無宗教だと答えて相手に不思議な目で見られるという経験。なんだこいつ、という目で見られることの違和感こそは、ぼくたちがどっぷりひたっていて、あまりにも自明であるが故に捉えられなくなっている宗教感覚から、ぼくたちを引き離してくれる。

 

 おそらく全共闘世代と呼ばれる人たちにとって、カラフルであったりカラーレスであったりする感覚は自明のものなのだろう。しかしそれは、自明の感覚のなかにあるかぎり、うまく捉えられるような形では浮かび上がってこないし、説明されてもなかなか実感できない。ぼくも大学時代、あの世代の教師たちからヘルメットの色の話を聞いたことがあるけれど、それはどこか遠い思い出ばなしのように距離のあるものに感じられた。ただ、かろうじて、その話を語る教師たちの遠い視線と、そのメランコリックな表情から、なにか別の時代があったことを少しかいま見たような気がしただけだ。

 

 ここまで書いてきて、ぼくの頭の中には今、中島みゆきの「時代」が鳴り響いている。多くの歌手にカバーされ、卒業式など、様々な文脈で歌い継がれるスタンダードナンバーだが、たぶんここには全共闘時代の世代的心情が込められている。実際、1952年生まれの中島みゆきは、1968年という学生運動にとって象徴的な時代に16歳だったのだから、時代的な雰囲気を感じていないはずがない。なんども耳にして、ギターを抱えて、あるいはカラオケで口遊んだ「時代」という歌。今この歌は、あの村上春樹の新作とともに、ぼくのなかで同じ場所を占めつつある。共通するのは、ある種の距離の感覚であり、ある種の喪失感だ。

 

 村上春樹が「乱れなく調和する共同体」と呼び、中島みゆきの謡う「そんな時代」「あんな時代」が、どちらも全共闘の時代のことだとすれば、おそらく当事者にしても、世代を異にするぼくたちにとっても、それはどこか遠く離れたものであり、すでに失われたものにほかならない。その距離感と喪失感のおかげで、ぼくはこのふたつの作品のなかに入り、そこで実感をつかむことができるような気がしている。

 

 少し歴史的に言えば、全共闘の時代の高揚感が急速に冷めたのは、おそらく1972年の浅間山荘事件をひとつのきっかけにしているのだろう。実際、『時代』は1975年に発表されたものだから、それはいわば《祭りのあと》を謡ったものだと言うことができる。祭りは、非日常的な時間と空間が生きられる特殊な体験だ。そこでは時間が止まり、空間は引き延ばされ、個々人は社会的な身分や地位や年齢などのくびきから解放され、全人格的な存在としての居場所を与えられる。人はまさに「正しい場所で、正しい仲間と結びついている」という高揚感に満たされるわけだが、そんな祝祭的な時間や空間こそが、ある意味で共同体というものに接近しなおす手がかりを与えてはくれないだろうか。

 

 少し話は横道にそれるようだが、伝統的な共同体における祭りを考えてみよう。それはたいていの場合、一年の決まった時期に行われる。そのとき、共同体の成員は日常の紐帯から解放され、特殊な時間と空間を共に生きることになるのだが、そこで過去と未来は渾然となり、非日常的な高揚感のなかで日常的で因習的な関係性の転倒や解体が経験される。しかし祭りが終わると、共同体にはふたたび日常の時間が流れ出し、各人は同じ関係性のなかへと戻ってゆく。そのとき、ある意味で人々は生まれ変わり、一年後の祭りという未来へ向かって一歩を踏みだすことになるわけだ。

 

 こうした伝統的な祭りは、放っておくと硬直化し崩壊してしまう共同体を蘇らせ、過去から未来への持続をはかっているように見える。祭りという回帰的で非日常的な経験は、日常の解体と再構築あるいは死と再生をその内実としながら、なにか共同体の持続装置のようなものとして機能しているのではないだろうか。だとすれば、祭りは共同体の一部、あるいは場合によっては共同体そのものだとい言うことさえできるのかもしれない。実際、離れた故郷を思ったり、学生時代のことを懐かしんだりするとき、ぼくたち記憶のなかに蘇るのは、盆踊りであったり、学園祭であったり、どこか祭りのような非日常的なものを含んだものが圧倒的なのだから。

 

 しかしながらである。今、問題なのは、もはやそんな伝統的な共同体が、ぼくたちの生きる時代において、あの祭りもろとも崩壊しつつあるという事態なのではないだろうか。もはや祭りのときが回帰することはない。ぼくたちが生きている時間と空間は、どこまでもを平坦化され均質化されてゆく。その圧倒的に見晴らしのよい場所で、ぼくたちは呆然としてしながら孤立し、居場所を見失い、仲間を見出せないでいる。パゾリーニならば、それをオモロガツィオーネ omologazione (均一化)呼ぶのだろう。

 

 そんな時代に生きるぼくたちにとって、おそらく多崎つくるの「5本の指みたいな共同体」は、もはや懐かしい思い出ではなく、ある種のトラウマとして回帰する。このトラウマをどうやって乗り越えればよいのか?村上春樹の新作は、そんな問を内包する寓話として読まれなければならないのか知れない。