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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

読書

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

村上春樹の新作、昨日の夜11時ごろから読み始めた。

 

この人の本は読み始めるとやめられないが、今回はとくにそうだ。村上好みの謎解き・ミステリーの話型を採用しながら、そのシンプルな物語がぼくをとらえてはなさない。文字を追う目が真っ赤になって悲鳴をあげても、頁をめくることがやめられない。やがてめくる頁がなくなったとき、それは朝の4時すぎだった。全370頁。やっぱり徹夜になっちゃった…

 

一寝入りして、今ぼくはあの物語を反芻している。どうせそのうち、また手に取って読み返すにきまっているのだけど、でもその前に、備忘のためにも、第一印象を記しておくことにしよう。

 

なんとなく予感していたのだが、今のぼくには、やはりそうだったという感覚がある。村上の新作は、ポスト3・11の時代に生きるぼくたちの折れた心のための物語、そんなふうに感じているところだ。ただし地震や津波や原発事故が直接描かれるわけではない。だからといって、空想的な比喩に訴える「東京を救うカエルくん」も出てこないし、時間と空間を飛び越える「井戸」や「壁抜け」が出てくることもない。あのパラレルワールドに迷い込むこともなければ、なにか怪物的な生き物や登場人物が現れることもない。ここにあるのは、奇をてらうようなファンタジーや解かれぬままに残る謎ではなく、あくまでもリアルな今の世界なのだ。

 

そんなリアルな世界は、いつもの村上らしい眼差しのなかに浮かび上がるのだが、これまでとはどこかが違う。どこか『ノルウェーの森』に似ているけれど、どこかが新しいリアリズム。そんなリアリズムが捉えようとするのは、ぼくたちが生きている今だ。たとえ一度は「色彩」を失ってしまっても、たとえ一度は沈んでしまい、一度は損なわれかけたとしても、なんとかしてあのバランスの回復が目指されなければならないような場所、それが今回の村上のリアルなのだ。

 

感動したのは巨大な新宿駅の描写。

 

 (新宿駅は)まさに迷宮だ。通勤ラッシュの時刻にはその迷宮は人の海になる。海は泡立ち、逆巻き、咆哮し、入り口と出口をめがけて殺到する。乗り換えのために移動する人々の流れがあちこちで錯綜し、そこに危険な渦が生まれる。どんな偉大な預言者をもってしても、そのような荒々しく逆巻く海を二つに分つことは不可能だろう。

  そんな圧倒的な数の人々が週に5日、朝と夕方の2回、決して十分とはいえない数の駅員たちによって、要領よく、大過なくさばかれているなんて、簡単には信じがたいことだ。p.349) 

 

 そんな駅の姿は、かつて『コヤニスカッティ』(1982年)という映画が、フィリップ・グラスのミニマルミュージックとともに皮肉をこめて描き出していた(そして少なくともぼくはそのころ、その皮肉な眼差しに共感していた)。しかし今、もはやそれを「平衡を失った世界(コヤニスカッティ)」と呼ぶことには抵抗がある。あの「1995年の春に東京で実際に起こった」悪夢(=地下鉄サリン事件)を知っている村上(とぼくたち)にとって、人々の溢れる駅はむしろ「簡単には信じがたい」ようなすごいことが日々起こっている場所なのだ。それを、あのテロリストたちが壊そうとしたことで、逆説的に、その場所の「信じがたい」ほどのみごとな平衡が露呈したわけだ。だからこそ村上は、主人公多崎つくるの、次のような気持ちを描き出す。

 

 1990年代の初め、まだ日本経済のバブルが続いている頃、あるアメリカの有力紙が、冬の朝のラッシュアワーに新宿駅の階段を降りていく人々の写真を大きく掲載した(あるいは東京駅だったかもしれないが、どちらにしても同じことだ)。そこに写っている通勤客は、みんな申し合わせたように下を向いて、缶詰に詰め込まれた魚のように生気のない、暗い顔をしていた。記事には「日本はたしかに裕福になったかもしれない。しかし多くの日本人はこのように俯いて不幸そうに見える」とあった。そしてそれは有名な写真になった。

 日本人の多くが実際に不幸なのかどうか、それはつくるにもよくわからない。しかし混雑した朝の新宿駅の階段を降りていく通勤客が、みんな揃って顔を下に向けていた本当の理由は、彼らが不幸だったからというよりはむしろ、足下を気にしていたからだ。階段を踏み外さないように、靴をなくさないように — ラッシュアワーの巨大な鉄道駅ではそのことがとても重要な課題になる。写真にはそのような実際的なバックグラウンドについての言及はない。そして暗い色合いのオーバーコートを着て、俯いて歩いている人々は、だいたいの場合幸福そうには見えない。もちろん毎朝、靴を失う心配をしなくては通勤もできないような社会を不幸な社会と呼ぶことは、論理的には十分可能なわけだが。(p.350) 

 

 そうなのだ。ぼくたちは平衡を失っていたわけでも、不幸だったわけでもない。たとえ、それが不幸な社会だと論理的に語ることができたとしても、ぼくたちはそこで実際に生きていたのであり、今も生きている。たとえ「足下を気にしながら」ではあっても、それがぼくたちの生きる場所なのだ。それがあまりにも揺るぎないものと感じられていた時、これを「平衡を失った世界」だと批判する『コヤニスカッティ』から「アメリカの有力紙」へと連なる言動にはそれなりの力があり、ぼくたちを驚かせる響きがあった。けれどもそれは今、ただ陳腐なだけでまったく力を持たない。なにせ地球がちょっと身震いしただけで家々が波に飲み込まれ、福島で放射性物質がまき散らされてしまったのだ。そんな悪夢が現実となる様を目の当たりにした僕たちは、まさに背骨をぽきりと折られたような状態で、だれもが「暗い海にひとり投げ出されたような」生を生きなければならなくなっている。

 

 きっと村上春樹は、そんな何もかもが破壊された後の時代の情動に共振しながら、この物語を立ち上げていったのだと思う。だからこそ、主人公の多崎つくるは「つくる」人なのだ。彼の「つくる」という名前は、例によって息子からあまり理解されない父親がこだわった名前なのだが、この父親はその漢字に「創」をあてるか「作」をあてるかで悩み、シンプルな「作」を選ぶ。そしてつくるは、父の選択を好ましいものとして受け入れると、鉄道駅を「つくる」仕事につく。それは地味な仕事ではあるが、不満はなく、着実に駅を「作る」ことはむしろ、この主人公の喜びとして描き出される。そんな彼は、自分にかかってくる重さを左右にふりわけながらバランスをとってゆく。それは、傍目からするとスマートでマイペースに見える。けれども、バランスをとるその作業は決して簡単なものではない。もしかするとそれは、綱渡りに似ているのかもしれない。バランスを崩すと、まっさかさま。だからこそ村上はこの物語の冒頭で、その危うさが露になるようなフレーズをつきつける。

 

 大学2年生の7月から、翌年の1月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。

 

 それは村上春樹の迷宮への誘いだ。そしてそこには、まさに「泡立ち、逆巻き、咆哮する海」のような同時代がある。そこで、ぼくたちはあの「危険な渦」のなかに巻き込まれながら、なんとか均衡を保とうとしている。その危うい渦にもまれた一夜が明けた今、ぼくは、なおその流れのさなかにあって、あの「白樺の木立を抜ける風の音」をたしかに聴いたような気がしている。

 

さすが村上春樹、好きな人も嫌いな人も、ぜひご一読を。

 

最後に、今回の小説のテーマ曲でもあるリストの『巡礼の年』を YouTube から:

 


Liszt:Années de Pélerinage I "Suisse"Le mal du pays ...

 

ついでに『コヤニスカッティ』の trailer もどうぞ。

 


Koyaanisqatsi (trailer) - YouTube

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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