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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

モータリゼーションとショッピングモール

「ジーンズショップがつぶれ、カラオケがつぶれて、その後にできた100円ショップもつぶれた。100円ショップがつぶれたら町も終わりだで」

 

新しく始まったNHKの朝ドラ「あまちゃん」で、三陸鉄道の駅員大吉(杉本哲太)が久しぶりに帰ってきた春子(小泉今日子)に言うセリフだが、脚本はクドカンこと、宮藤官九郎。いやあ、うまいね。たしかに地方の商店街が人を集める切り札としたのはカラオケであり100円ショップだったのだろう。しかし切り札を必要とするようになったとき、すでに町の中心=商店街は閑散とし始めていたのだ。
 
それをクドカンは、大吉の「モータリゼーション」という言葉で説明する。もはや懐かしい響きさえあるこの言葉は、かつては未来の夢として語られたものだが、今や地方都市の崩壊を語るときのキーワードだ。実際、地方での自家用車の普及とともに、バスの時刻表はスカスカになり、地方の鉄道は廃線となり、中心部=商店街から歩く人の姿が消える。軽自動車が買物のための自転車にとって代わり、車は一家に一台から一人一台の時代となれば、道行くのはただ車、車、そして車。その車に乗った人々が集まるのが、大きな駐車場があるショッピングモールだ。
 
この春休み、倉敷のショッピングモールに行く機会があった。多様でオシャレな店舗が連なる広い通路を人々が行き交う姿は、その訛りさえ耳に入らなければ、東京となんら変わるところがない。そこには流行のファッションがある。流行の映画をやる映画館がある。旅行代理店がある。すべてがある。それは地方に出現した小さな都会だ。うちの娘なんて、東京で作ったメンバーズカードを倉敷にある同じ店で使っていたからね。値段も決して高くはない。そこそこのセンスのものを手軽な値段で売ることができるのは、全国にあるモールにチェーン店を展開しているからなのだろう。
 
人は人が集まるところに集まる。ショッピングモールはそんな構造になっている。なにせ家族で楽しめる。シネコンがあって、子どもが映画を観ているあいだに、親は買物ができる。フードコートでは、子どもはハンバーガー、父親はラーメン、おじいちゃんはうどん(というか倉敷は「ふるいちのぶっかけうどん」!)、というように好きなものを手軽に食べられる。家族だけではない。中学生や高校生たちも、自転車で集まってきては、モールの一角でダベリング(この言葉はもう死語ですかね)。近くに住んでいる一人暮らしの老人たちのなかには、朝からやって来て一日暇をつぶす人もいるという。なにせそこは夏は涼しく、冬は暖かいのだから。
 
その一見のどかで微笑ましい光景は、もはや地方でも都会でもない。それは消費社会の中核を占める場所なのだ。だからジョージ・A・ロメロはその幸福な光景を逆転してみせたのだろう。その『ゾンビ』(1978年)はまさに、このショッピングモールをゾンビの巣窟として描き出す。そこにうごめくゾンビたちの姿は、黒人も白人もない、裸の欲望に駆られるアメリカ人自身の姿でもある。それは、いち早くモータリゼーションを進めたアメリカ社会の中核に広がっている黒点であり、それはまさにゾンビが増殖していゆくように広がってゆく。そんなロメロの恐怖を生み出した環境が、今、日本の地方都市にもはっきりと姿を現したというわけだ。
 
 
じぇじぇ、朝の連ドラ「あまちゃん」がいかに面白いか語ろうと思ったのに、いつのまにかゾンビの話になってしまった。もうしわけないので、口直しに主演の能年玲奈(のうねん・れな)ちゃんのかわいらしいCMをどうぞ。