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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ナイト・シャマラン『エアベンダー』

エアベンダー スペシャル・エディション [DVD]

 

 3週連続でのイタリア映画のセミナーがようやく終わった。

 

 さすがに疲れたので息抜きに、ファンタジー映画が見たいという中学の娘と『エアベンダー』を見る。アメリカのTVアニメ『アバター 伝説の少年アン』の映画化で、ナイト・シャマランの作品。

 

 シャマランの作品には、いつもどこか神秘的な世界観が見え隠れしている。成功した『シックス・センス』や『アンブレイカブル』などに垣間みられ、評判にならなかった『レイディー・イン・ザ・ウォーター』では前面に出てきたものだ。それが『エアベンダー』では、世界に調和をもたらしている精霊たちという神秘が物語を支えるものとなっている。

 

 どうやらシャマランの映画は、その世界観がサスペンスの背後に隠れていればいるほど作品は好評で、少し露骨に出てくると拒否感が示されるみたいだ。

 

 それにしても、Avatar はもともとサンスクリット語で「(神仏の)化身」の意味。そして、Air-bender は「空気 air を曲げるもの bender 」ということだから、ようするに「風使い」のことだよね。これを「気」と訳したのはまずかったんじゃないのかな。そもそも、この物語の世界には「火の国」「水の国」「土の国」そして「気の国」があるというのだけど、やっぱり「気」じゃなくて「風」だよね。これってファンタジーによく出てくる四大元素「地水火風」でしょ。せっかくの東洋的世界なのだから、アバターとかエアベンダーとかじゃなくて、きちんと日本語にして「(神の)化身」とか「風使い」とか言ってほしかったところ。

 

 いろいろ批判されているみたいだけど、アクションシーンは悪くなかった。たとえば、「風使い」の少年アンが「土使い」の民とともに「火使い」の兵士たちと戦う場面。ワンシーン・ワンショットのなかで、回り込みながら移動するカメラが特殊効果を織り込まれた戦いの全容を捉えてゆく。なかなか面白いじゃない。ワイヤーアクションも効果的で、けっして奇をてらうのではなく、「風使い」のアンのアクションを大きく見せる役割を果たしているのが好ましい。

 

 その「風使い」のアクションは、クンフーというよりは舞なのだ。その振り付けは「八卦掌」をもとにしたものらしいが、ぼくらには「太極拳」としてお馴染みの動きで、その優雅な動きはまさに舞そのもの。だから、敵は打ちのめされるのではなく、その舞の勢いで吹っ飛ぶだけ。まさに相手をきりきり舞いさせるだけのものなのだが、そんな相手の動きが中心で舞う「風使い」のアンの舞を大きく見せることになる。

 

 この映画で重要なのは筋ではない。むしろ、映画的な特殊効果をたっぷりつかった主人公たちの舞なのだ。きっとシャマランは、「風使い」「水使い」「火使い」「土使い」のそれぞれの舞に、精霊たちへの畏敬の念とともに、ぼくたちの身体が同調するような映画を作りたかったのだ。そしてそれは、この荒唐無稽な物語のなかにあっても、なおアクチュアルな意味があると考えているのではないだろうか。

 

 そうだとすれば、ぼくはシャマランに同意したいと思う。そもそもウタや舞は、あらゆる人間的な苦悩と恩讐の彼方に突きぬける場所を開くもの。それは、どこか無邪気な子どもたちが遊びほうけるような、人間的歴史の終焉のあとになお残るなにものかを予感させてくれるのだ。

 

 ああ、なんだかマストロヤンニが憧れたフレッド・アステアの軽やかなダンスが見たくなってきた。たとえばこれ:

 


フレッド・アステア(ロイヤル・ウェディング)1 - YouTube

 

 まあこんなふうに、ぼくは『エアベンダー』を楽しんだのだけど、残念ながら、興行的にはだめだったらしい。どうやらシリーズ2作目は難しそうだ。最後に姿を見せた「火使い」の王女の舞も見てみたかったのだけど、ちょっと残念。