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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

サム・ライミ『オズ、はじまりの戦い』

映画

映画『オズ はじまりの戦い』予告編

 

 土曜日、中学生の娘と映画を観に行く。

 

 日本映画で山田洋次の『東京物語』とか、沖田修一の『横道世之介』などが候補にあがっていたのだが(前者のオリジナルは小津の『東京物語』で大好きな蒼井優が出ているし、後者は沖田さんの『南極料理人』が面白かったから)、結局は『オズ、はじまりの戦い』を観ることになる。

 

 『オズ』は、ティム・バートンの『アリス・イン・ワンダーランド』に続いて、3Dでのヒットを目指した作品らしいけれど、ぼくたちは3Dは遠慮することにした。だいたい3Dグラスをかけるのがわずらわしいし、料金も高い。決定的だったのは娘の一言「吹替よりも字幕版がよい」だった。小さい頃はわざわざ吹替版の回を選んでいたのだが、下の娘はなんだか最近、すっかり字幕のほうが気に入っているようだ。

 

 字幕で映画を観るほうを好むというのは、おそらく世界でもまれな奇習ではないだろうか。少なくともイタリアでは、字幕版の上映はシネフィルのための名画座に限られているし、ドイツでもフランスでも事情は同じだと思う(でもオランダは違うかも。あそこはテレビでも字幕で外国ドラマが放映されていたから、きっと映画館も字幕じゃないかな。だれか知っていたら教えて)。

 

 どうして字幕で映画を楽しめることができるのか、なんて考えていると、娘の世代が大好きなゲームを思い出した。「どうぶつの森」だ。これは、架空のどうぶつの村に入って、そこで日常生活を楽しむというゲームなのだけど、なかなか奥が深いらしい。どうやら現実世界と時刻や季節がシンクロしているらしく、特定の曜日や時間にしか現れないキャラクターなんかがいるから、ご飯を食べていると、「ちょっとごめん」とゲームのスイッチを入れたりするわけだ。

 

 この「どうぶつの森」というゲームが、どうして字幕と関係するのか。じつはこのゲームのキャラクターたちは、人工的に合成された「どうぶつ語」を話す。そして、そのチンプンカンプンな言葉は、「吹き出し」によってプレーヤーに伝えられるという仕組みになっているのだ。この「吹き出し」は、まさに「字幕」の役割を果たす。そしてその「字幕=吹き出し」は、どうぶつの世界が、あたかもどこかに存在しているような感覚を生み出している。そのあたりにことは、内田(樹)さんが実にうまく説明している。

 

 『ひよこどん』の中で語られる意味不明の外国語(それは機械的に処理されて、さらに「ありえない音声」となっている)は「私たちにはアクセスできない境位に実在する言語」であるかのような仮象を呈する。

 それが字幕の効果である。

 つまり「字幕」という「こちら側」を際立たせることによって、「画面の中の出来事」という「あちら側」は私たちから遠ざけられている。

 遠ざけられることによって、かえってそのラフなアニメ画の世界が、あたかも日常的な理解力をもっては「不可侵の領域」として、どこか遠い場所に実在するかのように思われてくるのである。

(『うほほいシネクラブ』文春文庫、pp.118-119)

 

 『ひよこどん』というのは、内田さんの友人の娘が作った短篇映画のことなのだが、これを「どうぶつの森」と置き換えれば、みごとに話が通じるではないか。ぼくの娘が、何だか最近「字幕」にこだわるのは、きっとこういうことなのだろう。

 

 ぼくたちが字幕で映画を観るとき、「声を聴く」プロセスが「字を読む」プロセスと分離されている。そして、その「声」は「直接触れることのできない世界」からもらたされ、「字幕」によって「直接触れることのできる世界」へと接続される。そのときぼくたち観客は、「あちらの世界」と「こちらの世界」の「あわい」に立つことになる。おそらく、字幕付きの映画を楽しむというのは、そんな「あわい」の領域で物語を楽しむことなのだろう。そんな楽しみ方ができるのは、字幕で映画を楽しむことが好きという奇習が一般化した国だからこその特権なのかもしれない。

 

 そんなことを思いながら『オズ、はじまりの戦い Oz the Great and Powerful 』を観てみると、なんだかこの映画そのものがそんな「あわい」に立つ作品だった。1939年の『オズの魔法使』のリメークかと思っていたら、そうではなくその前日譚ということらしい。なんだか『バットマン・ビギンズ』とか『スパイダーマン』のシリーズに似ているなと思えば、なるほど監督は『スパイダーマン』のサムラ・ライミだった。

 

 だから『オズ、はじまりの戦い』の主人公は、かつてジュディ・ガーランドが演じた(Somewhere over the rainbow を夢見る)ドロシーではなく、「偉大で無敵であること the Great and Powerful 」を夢見る若きオズなのだ。そしてこのオズこそは、前作のドロシーたちが最後に、それは偉大な魔術師ではなく、ただの年老いた人間であることを見出すあのオズにほかならない。

 

 では、ただの人間がどうやって「偉大で無敵の the Great and Powerful 」な魔法使と呼ばれるようになるのか。そのギャップこそが、この映画の見所。だからオズを演じるジェームズ・フランコ(『スパイダーマン』でハリーを演じて演じていい味を出していた)は、まずはじめに、美男だけど女たらしのペテン師で、少しの才能はあるものの自信過剰で誇大妄想気味の小悪党を印象づける。ようするに悪いヤツだ。そんな彼が、竜巻にさらわれて「魔法の国」にたどり着き、良い魔法使いと悪い魔法使いの覇権争いに否応なく巻き込まれるとき、少しずつ良いヤツに変わってゆく。

 

 「人はいかにして悪いヤツから良いヤツに変化するのか(あるいはその逆)」は、『スパイダーマン』のシリーズから一貫するサム・ライミの話型だ。ポイントは良いヤツになるには、一人だけでは無理だということ。そのためには誰かの助けがいる。実際、スパイダーマンにはメリー・ジェーン・ワトソン(キルスティン・ダンスト)がいたように、『オズ』ではカンサスの娘アニー/南の良い魔女グリンダ(ミッチェル・ウィリアムズ)が登場する。両者に共通するのは、エロティックな美女ではなく、どこか素朴で悪くすると田舎臭いが、主人公を一貫して信じ続ける強さをもった女性だということ。

 

 しばしばアメリカ映画には、ジョン・フォードの西部劇のころから一貫するミソジニー(女性嫌い)が指摘されるけれど、サム・ライミにはそれがないような気がする。この映画に登場する魔女たちにしても、西の魔女セオドラ(ミラ・キュニス)は、もともとは姉に騙されているだけの可哀想な女性だし、毒リンゴで醜い姿になり、最後にホウキにのって立ち去るときなんか、なんだか哀れを誘う。敵役の東の魔女エヴァノラ(レイチェル・ワイズ)だって、なんだか女らしいところがある。だから永遠の美を求める彼女が、最後の最後に、ほとんど偶然にエメラルドの魔法のネックレスを壊され(それによって苦しめようとは思っていないにもかかわらず)、それによってもっとも忌まわしい事実(老い)を突きつけられるとき、なんだか人ごとではないような気がする。そして、最後のテーマ曲を歌うのが、最近ではすっかり美貌の衰えたマライア・キャリーなのだけど、彼女を選んだ監督の想いには、どこかあたたかいリスペクトがあるように感じられる。どうもこのサム・ライミという人からは、アメリカ映画的なミソジニーとはほど遠い、女性へのリスペクトが感じられるのだが、どうだろう。

 

 それから、この映画にはもうひとつのリスペクトがある。それは映画へのリスペクトだ。伏線は、オズが憧れの人物として名前を挙げるトーマス・エジソン(1847-1931)にある。その発明である動画撮影機(キネトグラフ)こそが、オズによる「大いなる魔術=大トリック」を可能にして、悪い魔法使いとの戦いの勝敗を決めることになる。

 

 だから、オズがともに戦うことなる南の魔女グリンダの城の住民たちは、「軍隊」というよりは、映画の撮影隊に似ている。なにしろ彼らは善人だから「殺すことができない」。殺さずに戦うためにはどうするか。もちろん、オズのお得意の「イリュージョン」で戦うのだ。それはまさに「幻影」であり、映画にほかならない。だから住民の「なんでも作れる」ティンカーズ tinkers は、エジソンの発明を再現し、それを越える映像技術を作り上げる。「なんでも育てられる」ファーマーズ farmers は「かかしの部隊」を育て上げる大道具係であり、「どんな服でも作れる」マンチキンズ munchkins は、その姿を変えて敵の城に潜入するエキストラたちとして、オズの「イリュージョン=映画」の作戦になくてはならないものとなる。

 

 つまりこの作品は、まるごと映画という魔術に捧げられた映画であり、映画の善き力への全面的なリスペクトなのだ。ちょうどそれは、オズが最後に仲間たちに贈る「贈り物」に似ている。たとえそこに実体がなく、たんなる作り話だとわかっていても、そこに善意が働いていさえすれば、その「贈り物」は大きな力を発揮することになるのである。

 

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