雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

イタリア映画への誘い(1)

 千葉での講座「イタリア映画への誘い」が無事終了。

 

 朝までバタバタとスライドの準備をして、京葉道路をぶっ飛ばして、到着するや90分ぶっとおしで喋りまくる。映画のシーンをちらりと見せるところで、水を口に含んでしばし喉休め。その間も頭の中はぐるぐる回っている。次にどう話をもってゆくか、映像を見ながら、ほとんど即興で話を組み立てる。もちろんスライドは準備してあるだが、スライドとスライドのつなぎの言葉は、ほとんど即興なのだ。なんてスリリングな講義、毎回冷や汗ものです。

 

 講義が終わるとたいてい話した内容を忘れてしまうので、備忘のために、以下、少し思い出しながら書き留めておくことにする。

 

 まずは「イタリア映画の誘い」とうたいながら、そもそもイタリア映画ってなんなのでしょうね、というような話から開始。ぼくたちは当たり前のようにイタリア映画とか、日本映画とか、フランス映画などと口にするけれど、ご存知のように、作品によって国籍は実にあいまいなのだ。

 

 たとえば『ノルウェイの森』。松山ケンイチと菊池凛子が主演で、原作は村上春樹。1968年の日本の風景を背後に、物語はどこまでも日本なのだが、監督はヴェトナム出身のトライ・アン・ユンだ。彼の生まれこそヴェトナムだけど、12歳のときに両親とフランスに移住している。だから教育はフランスで受けたことになる。それでは、このフランスの監督、あるいはベトナムの監督が撮ったこの作品は、どこまでが日本なのだろうか。

 

 あるいは、ある日本を代表する映画監督の話。彼は中学生のころ(1917年、大正6年)、アメリカ映画『シヴィリゼーション』(監督トーマス・H・インス)を見て、大いに心を動かされる。それは、潜水艦の艦長が、敵の物資を運んでいると推測される民間の輸送船に魚雷を撃てとの命令されるが、ついにはそれを拒むという話だ。このまさに文明的な話に大いに感動したこの少年は、やがて映画監督となり、第二次世界大戦が始まると軍報道部映画班に徴集され、シンガポールで映画撮影の任務を命じられる。このとき彼は、「映写機の検査」という名目で、一般の観客が見ることがかなわなかったアメリカ映画の名作の数々(『風と共に去りぬ』、『ファンタジア』、『市民ケーン』など)に接する機会を持てたという。

 

 そんな話をすると、会場から、すぐに小津安二郎という声が飛ぶ。さすがに市民講座の受講生のみなさんはあなどれない。どこかの大学で話しているのとは違う。それにしてもである。小津安二郎が、どこから見ても日本らしい映画を撮ったとすれば、ある意味でそれは、圧倒的なアメリカ映画の影響があったからこそ、そのスタイルを巧みに回避しながら、独自のスタイルを形成したとは言えないだろうか。だとすれば、それもまたアメリカ映画の影響だとは言えないだろうか。

 

 話を少しずつイタリアに近づけてゆこう。たとえばベルナルド・ベルトルッチだ。このイタリア人監督が撮った『ラスト・エンペラー』や『リトル・ブッダ』は、はたしてイタリア映画なのか。あるいは、彼を世界的に有名にした『ラスト・タンゴ・イン・パリ』はどうか。主演はマーロン・ブランドマリア・シュナイダーで、舞台はフランス、セリフは英語とフランス語。これらの作品は、さすがにD.O.C.付きのイタリア映画とは呼び難い。だとすれば、同じベルトルッチの『1900年』はどうか。舞台はイタリアで、まさに1900年代のイタリアの歴史を描く大河ドラマ。けれどもよく見れば、主演はアメリカのロバート・デニーロと、フランスのジュラール・ドパルデュー、敵役はなんとドナルド・サザーランドなのだ。

 

 無国籍ぶりがもっと激しいのは、例えば『荒野の用心棒』。クリント・イーストウッドの西部劇だけど、じつは黒澤明の『用心棒』の非公式リメイクという内容。監督はイタリア人のセルジオ・レオーネ、撮影はスペインで行われたという。もちろんこの映画こそは、マカロニ・ウエスタン(日本以外ではスパゲッティ・ウエスタンと呼ばれる)の発端となる作品。そこでは、まず国籍を特定しようとする意識が逆手にとられ、しだいにその意味が失われてゆくと、ついには「マカロニ・ウエスタン」という無国籍のジャンルだけが残ることになる。

 

 最近の作品も挙げておく。たとえばウィル・スミスの『幸せの力』(2006年)。原題の Persuit of happyness はアメリカの憲法にある「幸福の追求」という言葉からとられたもの。この実にアメリカ的な映画を、ありきたりハリウッド映画にしたくなかったスミスは、わざわざイタリアから監督としてガブリエーレ・ムッチーノを呼んだのである。ムッチーノは、すでに『最後のキス(未公開)』でイタリア国内の評価を確立していた監督だった。その手腕を評価したスミスは彼の起用で成功を収めると、続く『七つの贈り物』でもメガホンを任せることになる。もちろん、これらの作品をイタリア映画と呼ぶことはできないとしても、イタリアの才能との出会いがなければ実現しなかったことだけは確かなのだ。

 

 こうした例は挙げればきりがない。ぼくが言いたいのは、映画の国籍を問うことは、時にわけがわからなくなるということだ。考えてみれば、映画なんて、そもそもその黎明期から国籍があいまいだった。今の映画の形を作ったのはフランスのリュミエール兄弟だったかもしれない。けれど、彼らが参考にしたキネトスコープ(箱のなかの映像を覗き見るもの)はアメリカのエジソンの発明ではないか。それに、もしもこのフランス人兄弟が映画を発明しなくても、遅かれ早かれ、どこかの国の誰かが、同じような技術を具体化していたはず。誰が発明したにせよ、シネマトグラフはすぐに世界中に広がり、世界中で撮影された映像がいたるところで上映されることになったのだと思う。なにしろそれは、さまざまな国家の、さまざまな国民が、世界中へ広がる市場のただ中にあって、新しい地平を開こうとしていた時代だった。映画とは、そんな時代に生まれた芸術であり、おそらく今でも大きくは変わっていないのだろう。

 

 たしかに映画というものはやすやすと国境を越える。映画館のスクリーンに、ぼくたちは世界中の映像を見ることができる。その映像を撮った者の国籍がどうであれ、ぼくたちはその映像が立ち上げる物語に、泣いたり笑ったりするのであり、ときにすっかり魅了されるのだ。だとすれば、そこにこそ映画の国籍があるのではないだろうか。その映像が映し出す場所とそこに生きる人々。それは、かけがえのない場所であり、同じようにかけがえのない人々なのだ。

 

 きっとトライ・アン・ユンは、村上春樹の物語が根ざす場所に魅了されて『ノルウェイの森』を撮ろうと思ったのだろう。きっとベルトルッチはアジアへの憧憬から、そのかけがえのない場所に迫るために『ラスト・エンペラー』や『リトル・ブッド』を撮ったのだろう。セルジオ・レオーネはアメリカのもはや失われた西部に、彼なりのかけがえのない場所を見出そうとしたのだろう。おそらくは、その場所からしか立ち上がることがないような映画のことを、ぼくたちは西部劇とか、日本映画とか、フランス映画などと呼ぶのではないだろうか。だとすれば、「イタリア映画」には、イタリアというかけがえのない場所から立ちあがる物語がなければならない。誰が撮ろうとかまわない。そこにかけがえのないイタリアがあること、それが重要なのだ。

 

 そんなイタリア映画のひとつとして、ぼくがこの講座で紹介した映画が、フェルザン・オズペテクの『向かいの窓』(2003)だ。イタリア人の映画評論家トゥッリオ・ケジチは、この映画を評してこんな皮肉たっぷりな言葉を残している。

 

 すばらしいイタリア映画を見るためには、その撮影のためにトルコ人に来てもらう必要があるのだろうか?

 

 ケジチといえば、戦後のイタリア映画評論をリードしてきた大物評論家だ。その彼は、それがフェルザン・オズペテクという「トルコ人」監督によるものであることに当惑を隠さない。そこには、なぜこのような「すばらしいイタリア映画」をイタリア人が撮ることができないのか、という自国の映画人への皮肉が込められているのだ。しかし、彼の当惑や皮肉の背後には、ひとつの偏見が読み取れる。イタリア映画はイタリア人が撮るべきだという偏見だ。しかし、この偏見は同時に、その透徹した批評眼によって打ち消されてもいる。たとえトルコ人が撮ったものであれ、ケジチはこの映画に「すばらしいイタリア映画」を見て取っているのだ。

 

 実際、『向かいの窓』が「すばらしいイタリア映画」であることは、イタリア国内の映画賞の結果にも証明されているようだ。2003年度ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞(映画産業の関係者たちによって選定される賞で、イタリアのアカデミー賞と考えられるもの)では、最優秀映画賞、最優秀主演女優賞、最優秀主演男優賞、最優秀音楽賞のほかに、 全国から選ばれた学生審査員による賞ダヴィッド・スクール賞をも受賞。またイタリアの評論家たちが選出するナストロ・ダルジェント賞では、最優秀主演女優賞、最優秀脚本賞、最優秀オリジナル主題歌賞を獲得。同じ年に有力作品として挙げられていたのが、今や国際的な映画監督となったガブリエーレ・ムッチーノの『リメンバー・ミー』(未公開、DVDのみ販売)や、ロベルト・ベニーニの『ピノッキオ』などであったことを考えれば、トルコ人監督の圧倒的な勝利にほかならない。

 

 そんなフェルザン・オズペテクの作品は、残念ながら日本では、イタリア映画祭に通うファンの他には、あまり知られていなかった。2011年にようやく劇場で公開された『明日のパスタはアルデンテ』の成功で、少しはその名を知られるようになったのだろうか。けれどもイタリアでは、今やこのイスタンブール生まれの映画監督のことを、あの評論家ケジチのように、トルコ人と呼ぶ者はいない。実際、2008年にニューヨーク近代美術館で、その作品の回顧展が開催されたのは、イタリア映画界にとっての誇りだったはずだ。オズペテクは、もはやトルコ人ではない。名実ともにイタリアを代表する映画監督なのである。

 

 それにしても、このオズペテクという人は、どうしてイタリアで映画を撮るようになったのだろうか。本人の言葉を聞いてみよう。彼はあるインタビューで、最初に映画館に行ったときのことを思い出しながら、こんなふうに語っている。

 

 それは7歳ぐらいのころでした。映画も覚えています。『クレオパトラ』、とても感動しました。子どもだったわたしは、イスタンブールの、あの地元の映画館で、すっかり映画の虜になったのです。もう少し大きくなると、週に2度、3度、映画館に通いました。チケットのためにお金をためながら、いつかそこを逃げ出して、映画の世界を勉強し、映画の仕事につきたいと夢見ていました。アメリカにゆくことを夢見ていましたが、けっきょくイタリアのローマを選びました。イタリアが勝ったのは、当時の私にとって、その国が自分の文化に近く、じぶんあり方に近いと感じていたからです。

http://www.attimo-fuggente.com/archivio2010/05/15/09=ferzanozptekregistadanime=052010.htm

 

 アメリカではなくイタリアを選んだというオズペテク。興味深いのは、そこに「当時の私はイタリアが自分の文化に近く、じぶんのあり方に近い」と感じていたというところだ。それは、ぼくにいわせると「かけがえのない場所」ということになる。なんだかよくわからないけれど、他ではなく、ここだと思うような場所。そこに立ち上がる物語。それこそが、このトルコの青年にとっての「イタリア映画」だったのではないだろうか。

 

  こうしてオズペテクは17歳のとき映画を学ぶためローマに移り、やがて映画の撮影現場に入り、ナンニ・モレッティやマッシモ・トロイージなど新時代の監督たちの息吹を感じながら、長い下積みの時代を経て、38歳のとき監督デビュー。トルコを舞台にした『ハマム』(1997年、日本未公開)と、日本でも公開された『ラスト・ハーレム Harem Suare 』(1999年)に続き、自らの生活の場所でもあるローマを舞台に、ステファノ・アッコルシやマルゲリータ・ブイらの人気俳優を配した『無邪気な妖精たち』(2001年)がイタリアで大ヒット。この成功に続き、同じローマを舞台に、さらに物語の深度の深めてみせてくれたのが『向かいの窓』という作品なのだ。

 

(続く)

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