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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

めくるめく鎌倉

もろもろ

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 木曜日に鎌倉に行ってきた。英文学の山木さんの案内で、フランス哲学の鈴木さんとブラブラ。やっぱり歩かなきゃわからないことがあるものだ。

 

 まずは朝比奈切通しを歩いて熊野神社へ。鎌倉へ通じる七口のひとつだけど、実際に歩いてみるとなるほど山に囲まれた鎌倉が要衝だと実感。実際に切通しの上から小石が落ちてきたのだけど、それだけども結構な迫力。もし鎌倉に攻め入ることになっていたら、上から槍や石が降ってくるのだろうなんて思うと、なんだか自分が生きている今に感謝。たとえ、その今が少々きな臭くなってきているとしても、だ。

 

 次いで鎌倉最古の寺といわれる杉本寺を訪ねれば、なるほど古い。古さというのは、何かが出てきそうという感覚をともなうものだけど、たしかに、本堂の奥がどこか向こうの世界につながっていそう。そこに座って、ゆらゆらとゆらめく蝋燭を見てたら、きっとなんでも信じてしまうのだろう。そういう場所だからこそ、そういう感覚を持てるのだ。なんだかヤコブ・フォン・ユクスキュルの「環世界」を思い出す。ぼくたちはふつう、世界はひとつだと思っているけど、ユクスキュルはそれが幻想だと指摘した人だ。生物は同じ世界に生きているのではない。生物が変われば、自分をとりまく世界を観察する視点が変わり、それにつれてその生物にとっての世界もその姿を変える、というのだ。つまり、視点が変わることで変化するような多様な世界のあり方が「環世界」ジョルジョ・アガンベン『開かれ』pp.72-79)。だとすれば、きっと同じ人間でも、時代が変わり場所が変われば、その人の「環世界」だって異なる姿を見せるのではないだろうか。この古いお寺で、ぼくが感じたのは、もしかすると、そんなふうに言えるのかもしれない。

 

 杉本寺の前にある左可井(さかい)というお店で昼食。鎌倉には、ふつうの民家がお店になっているところが多いけど、ここもそう。丁寧に作られた穴子丼で腹ごしらえ。さすがに穴子は鰻とは違うけど、そのうち鰻が獲れなくなると、穴子で代用するのかな、なんて思ってしまう。結局のところ、僕らたちは舌で食べる前に、言葉を食べているのかもしれないなんて、思っていると目の前に、穴子丼のお膳が置かれる。見るからに美味しそうだ。おっと、ぼくたちは目でも食べるのだ。もちろん、舌でも美味しかったです、はい。

 

 食事のあとは、ふらふら瑞泉寺まで歩く。えっちら石段を上り、ちらほら梅の咲き始めた花の庭を通り、本堂裏手の石庭へ。山を切り崩し岩盤削って作られた禅宗様庭園で、 夢窓疎石の作という。ずっと埋もれていたのが発掘されたそうだ。せっかくだからきちんと手を入れれば良いのに、そう鈴木さんが口にする。たしかにそうだよな。もちろん、在りし日の姿を再現するのは、不可能に近いかもしれない。けれども、禅の庭というものを考え直すためにも、きちんと修復するのがよいと思う。それがオリジナルと違っていてもよいではないか。たぶん修復という作業は、現在と過去の対話なのだ。荒れたままで残すのは、その対話の放棄のような気がしないでもない。

 

 山木さんが、この石庭が掘り出された背後の山を上ると富士山が見えるらしいと言う。現在は立ち入り禁止になっていて、上ることはできないのだけど、そこには徧界一覧亭と呼ばれる場所があるとのこと。たぶん、富士山が見える場所だから、山を切り開いて寺を開いたのだろうね、なんて話しになる。それじゃ、誰がそんな場所を知っていたんだろう。おそらく鎌倉に仏教が入る前から、その場所の存在を知っていた山伏のような人々がいたはずだ。そんな山伏たちの山岳信仰が先行していて、そこにのっかるような形で仏教が入ったのだろうな、なんて想像すると、見えていなかった「環世界」が開けてくるよな気がする。

 

 それから鎌倉駅のほうへ戻って、川喜田映画記念館へ。ちょうど亡き大島渚展をやっていたのでのぞいてみる。そこはなんだか別世界。ポスターやスナップ写真だけでなく、作品のダイジェストがテレビで流されているのを見ていると、なんだか映画に写し取られた戦後の日本が浮かび上がる。世代的に近い鈴木さんはもちろん、ぼくもすっかり見入ってしまい、記念館から出た鎌倉の街は、なんだか別世界みたいだ。そうなんだよな、映画というのは、そんな世界のずれの体験なんだよな。

 

 小町通でおいしいフランスのシードルを飲んで、しめはイタリアンの店コマチーナ。ここ良いお店ですよ。厚手の白いお皿に、あまり見た目を気にすることなく料理がドンとのって出てくる。それがまたうまい。ワインに合う。つい飲み過ぎてしまう。メニューにカーチョ・エ・ペーペ Cacio e pepe なんて書いてあって、ローマの友達が食べさせてくれた場末の味を思い出す。じつに塩っぱくて、チーズ臭い味。それがまた、ローマのフラスカーティとよく合う。コマチーナのは、さすがに日本にあわせて上品な味付けだけど、それでも、鈴木さん曰く、パスタが小麦だってことがわかる味。ぼくが絶品だとおもったのはネギの一品。ほとんど茶色になったネギが、オイルのなかでとろけるように甘い。日本のネギなのだけど、ちょうどお鍋のそこに焦げ付いたような感じで、なんだかとても懐かしい。なのに、そこにはちゃんとイタリアがある。パンにあう。ワインにあう。たぶんご飯にもあうのだろう。なんだこれ? そう思いながら、味覚だけははっきりと旨さをはっきりと感じていたのであります…

 

 そんなずれまくりの世界のなかで、アガンベン柄谷行人がどうやったら結びつくか(あるいは結びつかないか)なんて話で盛り上がったのは、夜もふけた帰りの電車のなか。

 

 ふー、なんだか、めくるめくような一日だったのであります。

 

開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

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