雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

クリアレーゼ『海と大陸』(1)

Terraferma ( Mainland ) [ Import - Italy ] (2012)

 一昨日、『海と大陸』の試写に行ってきた。最初に言ってしまうおう。これは傑作だ。少なくともぼくは、しばらくこの映画について機会があるごとに何度も言及することになると思う。

 

 1965年ローマ生まれのエマヌエーレ・クリアレーゼは、モレッティではないけれど、まさに「素晴らしき40代 splendido quarantenne 」の盛りにしてこの映画を撮った。この監督にキラリと光るものがあることは、2007年のイタリア映画祭で紹介された『新世界 Nuovomondo 』(2006年、未公開)ではっきりしていた。見逃してしまった『グラツィアの島 Respiro 』(2002年、未公開)とあわせて、この作品で彼は「島の三部作」を完成させたことになる。

 

 それにしても、クリアレーゼはなぜ島にこだわるのだろうか。ネットで見つけたあるインタビューのなかで、彼はそれをこんなふうに説明している。

 

 島というもの l’isola は、ひとつの実存状態が具体化したものです。わたしは仕事のために、《自分を島にする/孤立する isolarmi 》ことが必要です。それは自分自身の内に閉じこもるという意味です。でも、旅立つことも必要です。むかしからの結びつきがある共同体のある場所で、自分のことを外国人と受けとってもらいたいのです。自分を外国人だと思えることはよいものです。それは、どんな人間にとっても、どんな場所でも、いつの時代にも、ひとつの建設的な次元となるのですから。(http://www.marieclaire.it/Attualita/Emanuele-Crialese-racconta-Terraferma

 

 なるほどクリアレーゼは、「島というもの」によって「建設的な次元 una dimensione costitutiva 」を与えられると考えている。そしてそれは、ふたつの面から「建設的な」ものとなる。ひとつは、島がまさに外界からの隔絶によって「自分自身の内に閉じこもる rinchiudermi in me stesso 」のを可能にしてくれることだ。たしかに何かを作り出すためには、誰にも邪魔されず、自らの内側に何か創造的なものを探さなければならない。けれども、ただ閉じこもるだけでは新しく何かを創造することができない。だから、そこに島のもうひとつの面が浮き上がる。それが「自分の知らない場所」であることだ。しかもそこには「昔からの結びつきがある共同体」があり、そこで「外国人として受けとってもらう」ことが重要だという。たしかに外界から隔絶された島に行けば、自分が慣れ親しんだ場所には見られない、昔ながらの共同体に出会えるのだろう。その場所でよそ者が受け入れられるとすれば、「外国人」としてということになる。けれども「外国人」ということは、どのように創造性と結びつくのか? 

 

 クリアレーゼの言葉によれば、それは「自分にあるとは思わなかったアンテナを刺激される」ことにある。どういうことなのか、説明の続きを聞いてみよう。

 

猫のことを思い出してみてください。猫を新しい家に連れてゆくと、そこら中を歩き回り、しげしげと見回して、前の家では当たり前のようにあった品物に、はっと気づいたりしていますよね。まさにわたしは、そんな猫なのです(同)。

 

 彼にとって「外国人」というのは、新居に移された猫のようなものなのだ。それも、きっと家猫なのだろう。だから外に出ることもない。まさに「島ごもり isolarsi 」をして、新しい環境で、錆び付いていたアンテナ(ヒゲ?)をピンっとさせ、好奇心旺盛に新しい世界をつかみ取ろうとする。それが「建設的な次元 una dimensione costitutiva 」につながってゆく。

 

 たしかに外国で暮らすときには、それまで使ったことのないアンテナを立て、その感度を上げてゆかないと大変なことになる。ぼくもナポリに一年ばかり留学していたから、なんだか身につまされる。そこでは「日本では当たり前のこと」が「当たり前でなくなる」のだ。けれども、やってゆくためにはそんな事態こそが「当たり前」だと飲み込まなければならない。だから「自分にあるとは思わなかったアンテナ」を立てて、その感度をあげるほかない。それは確かに「建設的な次元」だったのだと思う。実際、なんとかイタリア語で話を通じさせられるようになれたし、なんと今では、そのイタリア語を教えているではないか。ぼくにとって教えることは、ある意味で「外国人」であった経験の反復なのだけれど、それはけっして退屈ではなく、むしろ建設的な反復なのだ。なにしろ教えていると常に新しい発見がある。そして、いつも新しい何かを作ってゆかなければ、うまい授業はできないし、そもそも教える楽さが損なわれてしまう。そう思うと、クリアレーゼの言葉にはとても親近感が湧いてくるのだ。

 

 そんな「外国人」という言葉については、クリアレーゼの経歴を見ることで、もう少し陰影がはっきりしてくるようだ。ローマ生まれだが、彼の家族はシチリアの出身。26歳のときアメリカに渡り、短編映画 Call me でなんとか奨学金を勝ち取ると、M.スコセッシやアン・リーなどを輩出した名門ニューヨーク大学の映画学部に学ぶことになる。しかしアメリカに渡ったときの彼は、ほとんど英語が話せなかったらしい。そんな彼が奨学金を得ることができたのは、アメリカの隣人や友人たちのおかげだという。申し込みの書類も満足に書くことができなかったのだ。このとき彼は、きっと自分のことを「外国人」だと強烈に感じていたはずだ。そのなかで見知らぬ街の人々との関わりに助けられながら、目前に映画への道が開かれてゆくことになる。

 

 もしも「映画作家は多かれ少なかれ自伝的な作品を撮るものだ」というプーピ・アヴァーティの言葉が正しければ、クリアレーゼもまた、この個人的な経験を「建設的な次元」として反復しているのだろう。実際、シチリアからNYへの移民たちの船旅を描いた『新世界 Nuovomondo 』は、まさに小さな島のような移民船が舞台だった。そして、そこにはたしかに移民たちの小さな共同体があり、外国人として迎えられる者たちの姿、その体臭、彼らの切迫感と夢がある。それも、まるで肌に直接触っているような感覚とともに、映画の背後にあるクリアレーゼ自身のNY体験へとつながっているのだ。しかし、その個人的な体験は、作品へと向かう創造的な営みを経ることよって、ぼくたちの前にひとつの物語として立ち上がってくる。それは、もはや作家の個人的経験からは自立し、ひとりで歩き出した物語だ。そしてそれは、「外国人」として新しい世界へ旅立つ物語として、ひとつの普遍性を獲得する。それが「建設的」という形容詞でクリアレーゼが言おうとしたことなのだろう。

 

Nuovomondo - The Golden Door - Trailer Italiano

 

 そして今ぼくたちは、そんなクリアレーゼの新作(といっても2年前の作品だけど)『海と大地』を前にしている。そこでは、前作にもまして普遍的で、かつ現代的な物語が立ち上がろうとしている。それは今のイタリアの現実を反映しているように見えるのだが、決して現実に引きずられることなく、むしろそれを越えてゆくような物語だ。では、その物語は何を伝えようとしているのか?もちろんそれは、4月に公開される映画を見ていただいて、それぞれが感じ取ってもらえればよいことだ。けれどもぼくはあえて、ここに映画が伝えようとしていることを記してみようと思う。ぼくの言葉ではない。それは、映画がまだ出来上がってもいないうちから、まったく関係のない目的で発せられた言葉なのだが、まるでこの映画のために語られたように思えるものなのだ。では、いったいこの映画は何を伝えようとしているのか?その言葉の主は、2009年2月、ガザ攻撃が国際的に非難されるなか、イスラエルでこう語っている。

 

 それは私たちは国籍も人種も越えた個としての人間だということです。そして、私たちはみな『システム』と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者たちの命の完全な代替不可能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。(内田樹『もういちど村上春樹にご用心』p.51)

 

continua...)

 

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