雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

園子温『希望の国』

希望の国 [DVD]
 新宿で娘と鑑賞。親子割引でふたりで2千円だって、なんだかうれしいぞ。
 見終わったとき娘が言う。「グロイ場面を予想していたら、 いつの間にか終わってしまった」。たしかに園子温にしては穏やかな作品だ。まだ廃墟に死者たちが感じられたからだろうか、どこか敬虔にならざるをえないところがあったのかもしれない。ただ、『ヒミズ』のような衝撃に備えていた高校生の娘には、どこか、すっぽかされた感じがしたらしい。
 『希望の国』という映画、総じて悪くない。絵もきれいだ。ちゃんと、ひっかかるところもある(ひっかかるのは大事なことだ)。何かちがう気もする(違和感も悪いばかりではない)。たとえば夏八木勲の演技。悪くはないが、あまりに見慣れたその顔、見慣れた演技。その背中に広がる風景に既視感がある。そこで展開する物語もどこかで聞いたような気がする。3.11の前なら、この見慣れたものは気にならなかったはず。けれど、3.11の後には見慣れたものが気になってしようがない。
 そんなことを考えていると、ふとロッセリーニの『無防備都市』を思い出した。1945年9月末、解放直後のローマの観客もまた、当時人気のコメディアン(アルド・ファブリッツィ)とコメディエンヌ(アンナ・マニャーニ)が、スクリーンで、ほんの数ヶ月前の街角に、解放前の物語を生きているのを見ていたのだろう。物語のちょうど中ごろ、あのマニャーニの叫びがローマの街に響き渡り、銃声が叫びの根を断つ。この「叫びと銃声」は、映画史的な事件であることを越えて、イタリア史におけるひとつ起点の象徴的イメージとなる。
 そんな「叫びと銃声」の代わりに、この映画では「杭」が打ち込まれてゆく。杭は柵となって伸びてゆき、向こう側とこちら側が仕切られる。つながっていたものが断ち切られる。断ち切られながらもまだつながっている。そんな「打ち込まれる杭と柵」は、あの「マニャーニの叫び」のように、ぼくたちの歴史の断絶と起点をあらわすような、ひとつのイメージ、ひとつの象徴となるべきなのか?
 そう問われれば、ぼくはなるべきだと答えるはずだ。それになんといっても、この映画には、ぼくの個人的な驚きがあった。どこかで見たような夏八木に対して大谷直子がじつに新鮮だったし、個人的な驚きだったのだ。じつのところ、ぼくはこの女優の表情のなかに、思いがけず亡き母の面影を見ていた。その見慣れた姿、繰り返される言葉、混乱する記憶、不思議そうに遠くに向けられた目を、ぼくたしかに大谷直子のなかに見ることができた。
 それは見慣れた狂気だったのだけど、同じものようなものを神楽坂恵のなかにも認めることができた。彼女の相変わらずの大根ぶりは、演技をせずに存在することが最高の演技だということを教えてくれる。その代えがたい存在感の心地さ。その目力は、存在感の強さに比例しながら、やがて防護服の向こうで虚ろになってゆく。そのまわりで右往左往するのが夫役の村上淳。わが娘にとっては「ファザコン男」と映ったようで「なんなのアイツ!」と反感を買っていた。ぼくとしては、村上の演技に悪い印象はない。
夏八木=父の「脆い強さ」に対し村上=息子の「しぶとい弱さ」が置かれることで、物語はうまく広がりを持てたと思う。なにしろ 3.11 のとき、ぼく自身も含めて、誰もがそういう「脆さ」や「しぶとさ」、「強さ」や「弱さ」をさらけ出しながら右往左往する状況だったのだから。
 おやっと思ったのは市役所の若い職員をやった山中崇。その独特の大きな目。まるでそれは、汚染にされ地域に職務上入らなければならい公務員のタテマエとホンネの間にポッカリ空いた暗い穴のようだった。もしこの穴から何かが出て来ていたら(ぼくは少し期待していた)、『ヒミズ』のようになってはず(娘はこれを期待していた)。ところが映画はそんな期待を裏切る。山中崇の大きな目の不気味さ、そのニヒリズムは、いつのまにか陰をひそめてしまうではないか。それは彼が、大谷直子の話に耳を傾けたときのこと。語られるのは、もはや催されることのない盆踊りへの想い。記憶の乱れのなか、彼女の口から出てくる言葉たちは湧きあがる若さであり、初心な恥じらいと熱情であり、少女が今まさに花を咲かせようと祭りに向かうときの興奮だ。そんな言葉たちは、「杭と柵」の断絶を越え、記憶を失いつつある老女の無邪気な口から出て、ニヒリズムの穴を塞ぎ、若い職員の瞳に生きる輝きを与えたのである。
 悪くないエピソードだと思う。でもぼくの娘としては、がっかりだったようだ。
「なんで(山中崇は)突然良い人になっちゃうの?」
「うーん、JTのCMにも出てるからね。つまり山中くんのよう個性的な俳優じゃないと、あのCMがまるで偽善的なものになっちゃうじゃない」。
 * * *
 よい映画は脚本がよい。この作品で目指されたのは、アレが起こった前後での「変化」を生活の機微のなかに捉え積み重ねてゆくことなのだろう。だとすれば、それは成功している。ぼくには、たしかにひとつの物語が立ち上がってきたし、きっとこれから何度も上映され、見直されるなか、新しい観客の新しい物語が次々と立ち上がってゆくはずだ。その可能性がある映画だと思うし、そうならなければ、この国はヤバい。
 ただひとつ、あの時を共有した者のひとりとして、後の備忘のためにも指摘しておくとすれば、この映画でロケされた廃墟の映像に生々しさが欠けていたこと、臭いが欠けていたこと、時間による変化が訪れていたことを挙げておこう。善し悪しの問題ではない。リアルタイムの感想だ。そこにはもはや、あの『ヒミズ』のオープニングのような強烈なインパクトが感じられなかった。あのオープニングでは、フィクションにリアルが侵入してきた。フィクションとリアルの境界が崩れる衝撃があった。ここにその衝撃はない。廃墟はもはや風景となり、それを見るぼくたちの側の変化を映し出している。その変化へのとまどい、それこそがこの作品の静かな衝撃ではないだろうか。
 * * *
 そもそも園子温は、あらゆる境界を逸脱し、それに挑もうとしてきた監督だ。映像のなかにほとばしる血は詩の言葉にほかならないと叫びながら、子どもには見せられないシーンの数々を文字通りスクリーンに「ぶちまけて」きた人なのだ。映画らしさとか、ドキュメンタリーらしさとかあらゆる「らしさ」に抗いながらここまでやって来た、そんな勝手気侭なやんちゃ坊主にほかならない。ところが、この映画では真摯で敬虔なタッチを積み重ねてゆくではないか。そこには衝撃というよりは、どこか凛としたがものが感じられる。
 たとえば、津波で後の廃墟のシーン。被災した両親を捜すヨーコ(梶原ひかり)は廃墟のなかレコード(それもビートルズ!)を探す男と子と女の子に出会う。
「あっちを探してあげる」と、ヨーコが「1歩、2歩、3歩」と歩き出したとき、この2人の子どもの声が聴こえてくる。
 1歩、2歩、3歩なんて今の日本人にはおこがましい。
 こうやって歩くんだよ、1歩、1歩、1歩…
 子どもにギョッとするセリフを言わせるのは園監督の得意技だ。例えば『自殺サークル』の「あなたはあなたの関係者ですか」というセリフ。それもまた、ただ不気味さを狙っただけのものではない。そこには園子温なりの強烈な批判意識、あるいは強烈な自我意識が働いている。けれども「今の日本人におこがましい」や「1歩、1歩、1歩…」は違う。たしかにギョッとさせはするが、単なる批判や自我意識とは違うものが働いている。
 なにしろ、あの2人の子どもはビートルズ世代のヨーコの両親の霊(?)か、あるいは壊れたヨーコの家に住んでいた座敷童であって、明らかに人の子ではなく、超自然的な存在だ。だからこのセリフは、批判でも自我意識でもなく、おそらく宗教的な預言であり、お告げのようなもの。ぼくが思うにそれは、園子温自信が廃墟のなかで感じたはずの、畏怖と畏敬が表出されたものなのだろう。
 * * *
 ここで園子温が挑戦しているのは、『ヒミズ』のオープニングシーンとは逆に、リアルのなかにファンタジーを、それも敬虔なファンタジーを侵入させること。それはどこか『道』を撮ったときのフェリーニに似ている。彼はもう少しのところで、通りがかりの馬が哀れなジェルソミーナに口をきくシーンを撮るところだったらしい。そんなことになったのは、『道』という映画が「道ばたに転がる石さえも何かの役に立っている」といういわばキリスト教的な回心に迫ろうとするものだったから。そしてそれが、リアルのなかにファンタジーの扉を開こうとしたのだ。そういえば『希望の国』には馬ではなく牛が登場する。もしかすると、園子温もまたもう少しのところであの汚染された廃墟をさまよう牛たちに口をきかせようとしていたのではあるまいか?
 そんな彼の次回作はどうやら映画監督を主人公にした喜劇らしい。園子温版『8 1/2 』ということか。そういえばフェリーニが考えていたこの名作のタイトルもまた、「喜劇映画」だったではないか。