雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

カンニングとゲイ・サイエンス

こんな記事を読んだ。少しイラっとしてしまった。そんなのはわかっている。問題はそこじゃない。そう思ったのだ。 www.bengo4.com Web テスト代行が問題なのではない。教育機関はこれからも DX (digital transformation)を進めてゆくだろうし、ICT(Informat…

『EAZY SLEAZY』( Mick Jagger with Dave Grohl)を訳してみた

www.youtube.com いろいろな声が聞こえてくる。 クラプトンがワクチンを打ってひどい目にあったから、ワクチン証明書を必要とするコンサートには出演しないと表明したり、これにたいしてブライアン・メイが彼の音楽はすてきだけど、人間としてはフルーツケイ…

エンニオ・モリコーネ、あるいは「映画のための音楽」

土曜日、カルチャーセンターでモリコーネと映画音楽のことを話してきた。マエストロは2020年の7月6日に逝去されたので、もうすぐ一周忌。そんなタイミングでのセミナーだった。 ところでぼくは、音楽については、はっきりいってアマチュア。大好きだからア…

光と硝酸銀と亡霊たち

日伊協会で『イタリア映画の夜明け』と題したセミナーの第一回を終えた。知っていることを話すセミナーじゃなくて、ぼくの知りたいことを話すセミナーだ。知りたいことを話すためには、知りたいことを調べなければならない。だから調べてみたいとして「イタ…

偶然よありがとう。泣けるぜ、スージーQ!

音楽との出会いはほんとうに偶然。G.Love & special sauce はCDショップで聞いたスネアの響きで、ピンク・フロイドはヒプノシスの奇妙な牛、そしてわがスージー・クワトロはもちろんジャケットのジャンプスーツ姿が大きかったにしても、ラジオから流れてきた…

追悼バッティアート、"La cura" (1996) を訳してみた

フランコ・バッティアートが逝ってしまった。享年76歳。病気だったと公言していたけど、なんの病気かはわからない。だから誰もがその死を予感していながら、生きている姿があたりまえだと思っていた。どこか樹木希林を思わせる飄々とした覚悟、もしかしたら…

ネコと絶対音感と人類学的マシン

www6.nhk.or.jp 今朝テレビつけたら養老孟司さんが話していた。 「人間と違って動物は言葉をもたない。なぜか。すべての動物は絶対音感なんです。みなさんが例外なんです。私が「ネコ」というのと、司会者の女性が「ネコ」というのと、音の高さが違う。違う…

"La storia" (Francesco De Gregori, 1985)を訳してみた

イタリアの4月25日は「解放記念日」。人気司会者ファビオ・ファツィオの番組「Che tempo che fa」では番組のなかで「感謝を口にする勇気」というビデオを作成して放送した。 "Il coraggio di dire grazie"Durante lo speciale sul #25aprile di @fabfazio de…

「剥き出しの生とワクチン」... 訳してみた

アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』のことはすでに紹介した。そこでのエッセイはすべて、Quodlibet 社のサイトに掲載されたもので、その最後の章「恐怖とはなにか?」(2020/7/13)の後も、アガンベンは執筆を続けている。最新版のエッセイが、今月の…

ヌメラシー、低くあること、応答可能性、そして世界に参加すること

4/25 TWで評判がよかったので、近所の書店で注文。届いてすぐにページをめくる。おもしろい。指で数字を操ながら数的理解に到達するに、どうやら人は痛みを伴う跳躍をしなければならないようだ。 森田さんは記している。「生来の認知能力に介入し、それを意…

宗教となった医療、あるいは、恐怖から逃れるために希望を捨てること

あらら、帯に問題になっている歴史学者さんの名前が... でも、内容は面白かったです。 体長100メートルのゴジラと、1メートルのジャガーという比喩はなんだかピンときました。アジアにやってきたのはもちろんジャガーのほうです。それでも街中で野放しにな…

アガンベンの『私たちはどこにいるのか? —— 政治としてのエピデミック』をめぐって

ジョルジョ・アガンベン 『私たちはどこにいるのか? —政治としてのエピデミック』 高桑和巳訳(青土社、2021年) 4月5日に購入。 こんなにすらすらと読めるアガンベンがあっただろうか。しかも、読み始めたら目から鱗がボロボロと落ちてゆく。「私たちはど…

「Ignorante」をめぐって

共同通信によると、テニスの大坂なおみさんが、2月6日にメルボルンで記者会見し、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の女性蔑視発言について「いいことではないし、その背景を知りたい。情報不足で少し無知な発言」と述べたという。この日本語…

朝カル新宿「ヴィスコンティとは誰だったのか」(1)と(2)

2020/9/12 朝カル新宿、「ヴィスコンティとは誰だったのか(1)」 ひさしぶりの対面式でしたが、フェイスカバーはどうにも嫌なので、結局はマスクをつけて喋ることに。ときどき息が苦しくなりましたが、それでもリモートとは違う高揚感に後押しされて言葉が…

ルイージ・ザンパの『Anni difficili (困難な時代)』を観た

ルイージ・ザンパの『Anni difficili(困難な時代)』(1948)年をイタリア版DVDで鑑賞。これは名作。でも日本では未公開で日本版のソフトもない。 どうしてこんな名作が日本未公開名作なのだろう。おそらくはネオレアリズモ的な潮流から外れていることが…

「フェリーニとは誰だったのか?」...

今年はフェデリコ・フェリーニ(ほんとうならフェデリーコ・フェッリーニが正しいのかな)の生誕100年の年で、ほんとうならゴールデンウイークのイタリア映画祭でも回顧上映が予定されていたのだけれど、コロナ禍でご破算。ところが年度の後半に入って頼まれ…

Quaquaraquà って誰のことだ:シャーシャの『真昼のふくろう』をめぐって

レオナルド・シャーシャの『真昼のふくろう』(竹山博英訳)を借りてきて読んだ。 実は、この小説を原作にした同名の映画を見て(日本未公開でテレビ放映されたときの邦題は「マフィア」)、おもわず原作の "Il giorno della civetta" にざっと目を通したの…

習合、コンタミネーション、そして臨場性の回復へ

久方ぶりに内田樹の新刊を買う。あいかわらずさっさと読めた。 いくつかポイントがあるのだけど、ひとつは最近の「理解と共感にもとづく共同体」への拒否感の表明。そいうものは、映画で言えば『エクスペンダブル』的な近ごろの傾向で、やたらべたべたと仲良…

ぼくらの時代のホメオパシー:『日本沈没2020』

『日本沈没2020』予告編 - Netflix ネトフリにて『日本沈没2020』を観た。 このところさすがに忙しい。一息にというわけにゆかなかったけれど、ちょうどふた晩にわたって楽しめた。 湯浅さん、『DEVILMAN crybaby』で永井豪に挑戦したあとは小松左京ときた。…

パトスとエートスのあわいに:テッド・チャン『息吹』

通算3日ほどで読了。おもしろかった。以下、読書メモ。 「商人と錬金術の門」 あっと言う間に引き込まれる。タイムトラベルもの。 テッド・チャンの新しいところは、運命が、たとえ「錬金術の門」によってその因果の法則が破られるかもしれないと思われると…

亡き人を傍にして読む『一人称単数』

新しい村上春樹の短編集を買った。 「石のまくらに」 電車の中で最初の短編を読んだ。やっぱり「僕」は簡単に出会った女の子と寝ちゃうんだ。でも、その曖昧さのあわいに、なにか深みが記されてゆく。そして鋭さと、何か不吉なものがある。 たとえば、こんな…

ダリダの『バン、バン!』(1966)訳してみた

youtu.be きっかけはカナダのグザヴィエ・ドランの『胸騒ぎの恋人』(2010)を見たから。 filmarks.com このなかで使われているイタリア語版の『バン、バン!』が実に見事に使われていたので、どうせなら歌詞を訳してみようと思ったしだい。 歌詞のプロット…

堀江敏幸「熊の敷石」

村上春樹の文体に似ていると娘がいう。冒頭の「熊の絨毯」のくだりに、昔読んだ、いしいしんじ、の『四とそれ以上の国』を思い出した。いしいしんじの場合は「俺」、そして堀江敏幸ならば「私」が、あっという間に動き出す文体となる。 ところが次の瞬間、堀…

映画でヴェネツィアを旅してきた

朝日カルチャー立川の「映画で旅するヴェネツィア」、昨日、無事終了しました。COVID19 騒動のなか、マスクを付けておられる方がほとんどで、しかも遠方から来るはずだった友人が、社命により移動できなくなったとの連絡もあったりもしましたが、比較的多く…

ゾンビと免疫と来るべき共同体

ちまたでは、まだまだウイルスの話でもちきり。ローマの音楽院ではアジア人のレッスンがキャンセルされたとか、どこかの国の生物兵器ではないかとか、アメリカの対応に比べて我が国ときたらという嘆きとか。そんなおり、娘とウイルスの話をしていて、興味深…

コロナウイルス雑感

東京でもマスクが売り切れているといいます。311のときミネラルウォーターが店頭から消えたことを思い出しますね。あのときは放射能汚染でしたが、今回はコロナウイルスがひき起こしたちょっとしたパニックというわけです。 放射能とかウイルスとか、ぼく…

加藤典洋『完本・太宰と井伏』、短評

年末から年頭にかけて、加藤典洋の『太宰と井伏、ふたつの戦後』を読んだ。読み進めながら、これが『9条入門』と平仄をあわせるものだと気がついた瞬間、鳥肌が立った。9条には「ねじれ」があった。そこには平和主義の崇高な理念が輝く一方、敗戦の結果と…

『海と大陸』再訪

先日、早稲田大学で「映画で開くイタリア」と題して90分話してきた。最初は漠然とイタリア映画とその背後にある歴史や文化の話をしようと思っていた。リソルジメントとかレジスタンスとか、言葉を学ぶ学生たちが知っておいた方がよい話題を、あれやこれやの…

ルーチョ・ダッラ『Come è profondo il mare』訳してみた

この歌は前から知っていた。一度聞いたら耳にこびりつくベースライン。ダッラの独特でここちよい歌声、軽やかなイタリア語の響き。 けれども、その意味を考えたことがなかった。なんだか海が深いとか歌ってるなと思ってはいたけれど、きっかけがなかったのだ…

パゾリーニ「俗世の詩、1962年6月21日」を訳してみた

のんびりした日曜日、風呂から上がってさあ寝ようというとき、FBの投稿でふと目に飛び込んできたパゾリーニの詩。冒頭の「1日中修道士のように働いて、夜は野良猫のように彷徨って愛をもとめる」という部分にハッとしてしまう。 ここにはパゾリーニその人…