雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

Mahmood の "Soldi"、訳してみた

f:id:hgkmsn:20190218221543j:plain

 

今朝のニュースで、サンレモ音楽祭 2019 の優勝曲が "Soldi"だと知る。歌ったのは Alassandro Mahmood (YTの映像を見ると「マムッド」と呼ばれているようだ)で、歌詞は自作とのこと。イタリア版ウィキペディアによれば、母親はサルディニアの人で父親はエジプト人とのこと。ただし本人は100%イタリア人だと思っているという。

ぼくは Mahmood というアラブ風の名前にひかれ、この優勝曲 "Soldi" (お金)を聞いてみる。なかなかダンサブルなナンバーだし、ラップ調の歌詞もしっかりと耳に残る。ジョヴァノッティもそうだけど、少なくともぼくにとって、イタリアのラップは言葉がしっかり伝わってくるので、心地よい。心地よく歌詞を聴いているうちに、その意味が気になってくる。

「サンレモ2019:マムッドのメルティングポット」という記事によれば、これまでマムッドはほかのアーティストに歌詞を提供してきたのだけれど、ついに自分のことを歌おうと思ったのが、この曲だというではないか。じっさい、"Soldi" は父親との関係を描いているものだという。

www.talassamagazine.com

歌詞を読んでみるとアラビア語も出てくる。それは父親から言われた言葉だというのだけど、本人はアラビア語はほとんどわからないらしい。それでも、故郷のエジプトにはなんどか行ったことがあるようで、自分はイタリア人だと言いながらも、父方の故郷も大切に思っているとのこと。

そんなマムッドの歌を以下に訳してみた。ポイントは父親だけではなく母親への想いも歌われているということ。そして「お金」(i soldi)という謎かけだ。「お金がほしかっただけだろう」「お金を手にいれたように思ったんだろ」というセリフは、わかるようでわからない。わからないなり訳してみると、おぼろげに見えて来たのは、父親への愛憎入り混じる想い。複雑だが、深く強い。すべてはお金のためという世の中で、お金ためではないなにものかへの渇望。そんなものが伝わって来たのだけれど、どうだろうか。

ではビデオクリップに続いて、ざっと訳してみたので、ご笑覧。

 

www.youtube.com

Soldi
(testo di Mahmood) 

 

街のはずれは すごく暑いな  

ママ 心配ないよ もう帰るから 

嘘をつかれると 傷つくんだよね

愛を信じたのに 相手をまちがえたんだよね

やつはラマダンにシャンパンを飲む

テレビではジャッキー・チェンがかかってる 

水タバコを吸って ぼくに元気かときいてくる

In periferia fa molto caldo 

Mamma stai tranquilla sto arrivando 

Te la prenderai per un bugiardo 

Ti sembrava amore ma era altro 

Beve champagne sotto Ramadan 

Alla TV danno Jackie Chan 

Fuma narghilè mi chiede come va 

元気か?調子はどうだい?そう聞かれても

元気とか調子がどうかなんて もうわかってるだろ

もたもた考えてないで あした騙されないようにしないとね

わけを説明してる時間はない ようやく今あんたが何者かわかったのさ

世の中やってゆくのは簡単じゃない

誇りを失っちまったとき

いつか家を出ることになる

Mi chiede come va come va come va

Sai già come va come va come va 

Penso più veloce per capire se domani tu mi fregherai

Non ho tempo per chiarire perché solo ora so cosa sei 

È difficile stare al mondo 

quando perdi l’orgoglio  

lasci casa in un giorno 

あんた おしえてくれよ

お金のことしか考えたなかったのかい 

ぼくにお金ができたと思ってたのかい 

おしえてよ、ぼくを恋しくおもったのか、どうでもよかったのか

元気か調子はどうだって聞いてくれたのに

今どんな調子か たずねてくれたのに

Tu dimmi se 

Pensavi solo ai soldi soldi 

Come se avessi avuto soldi 

Dimmi se ti manco o te ne fotti 

Mi chiedevi come va come va come va 

Adesso come va come va come va 

言わなきゃならないことは言わなかったよね 

裏切りは胸の銃弾さ 

あんたの施しはもって帰ってくれ

あんたが家でついた嘘は ママにばれてたんだよ 

椅子にすわったママから ぼくはこう聞かれる  

Ciò che devi dire non l’hai detto 

Tradire è una pallottola nel petto 

Prendi tutta la tua carità 

Menti a casa ma lo sai che lo sa 

Su una sedia lei mi chiederà 

調子はどうなのって

でも調子がどうだか もうわかってるよね

もっと急いで考えて 明日 騙されるないようにしないと 

わけを説明してる時間はない ようやく今あんたが何者かわかったのさ  

Mi chiede come va come va come va 

Sai già come va come va come va 

Penso più veloce per capire se domani tu mi fregherai 

Non ho tempo per chiarire perché solo ora so cosa sei 

世の中 やってゆくのは簡単じゃない 

誇りを失ったときにはね

一瞬でわかったさ

あんたはおれから

È difficile stare al mondo 

Quando perdi l’orgoglio 

Ho capito in un secondo  

che tu da me 

ただ金がほしかっただけだろ 

もう金が手に入ったようなに思ってたんだろ

以前はおそくまで話してくれたよね 

調子はどうだいって声をかけてくれたよね 

ワラディ・ラワディ・ハビビ・タアレエナ*1 

遊びながら言ってくれたよね、本気で遊んでくれたよね 

ワラディ・ラワディ・ハビビ、本当だと思ってたよ*2 

以前のように戻りたい 戻りたいのさ 

Volevi solo soldi 

Come se avessi avuto soldi 

Prima mi parlavi fino a tardi 

Mi chiedevi come va come va come va 

Adesso come va come va come va 

Waladi waladi habibi ta’aleena

Mi dicevi giocando giocando con aria fiera 

Waladi waladi habibi sembrava vera 

La voglia la voglia di tornare come prima 

おれはあんたから金なんていらなかった

世の中 やってゆくのは簡単じゃない 

誇りを失ったときにはね

いつか家をでてゆく

Io da te non ho voluto soldi… 

È difficile stare al mondo 

Quando perdi l’orgoglio 

Lasci casa in un giorno 

教えてくれよ 

ただ金がほしかっただけだろ 

ぼくにお金ができたと思ってたんだろ

あんたが街を出ても、誰もかまやしない 

昨日はここにいたよね、今はどこにいるの、パパ 

調子はどうかと言われても 

調子がどうだかわかっているだろ

Tu dimmi se 

Volevi solo soldi soldi

Come se avessi avuto soldi 

Lasci la città ma nessuno lo sa 

Ieri eri qua ora dove sei papà 

Mi chiedi come va come va come va 

Sai già come va come va come va

 

Soldi

Soldi

  • Mahmood
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Soldi

Soldi

  • Mahmood
  • ポップ
  • ¥400
Soldi

Soldi

 

 

 

*1:イタリア語では"Figlio mio, figlio mio, amore, vieni qua"だから「息子よ、息子、大切な息子、おいで」の意。この記事を参照。

*2:つまり「わが息子、大切な人」と言ってくれる父を信じていたということ。

人格、あるいはペルソナをめぐって

f:id:hgkmsn:20121002142037j:plain

Il Phersu, Tomba degli Auguri, Necropoli dei Monterozzi, Tarquinia (Wikipedia it.)

きっかけはこんなツイートだ。

 


「言語は思考そのもの」かどうか、という議論に深く入るつもりはない。サピア・ウォーフの仮説や、それについてのチョムスキーやその弟子ピンカーの反論も、わからないわけではない。なんならエーコの「完全言語」の話も面白いのだろう。けども今、少なくともぼくがもとのツイートを見たとき、ひとつだけ直感的に浮かんだフレーズが「言語が変わると人格は変わる」というものだった。

ツイートには少しばかり反響があった。そのなかのひとつ「人格が変わるのか、適応現象なのか」というものに目がとまる。なるほど、「適応」というのはそのとおりだし、そうかもしれない。しかしそれって、「人格」が変わることでもあるのではないだろうか。ぼくはそう思った。

人格が変わるというのは、けっして特異な現象ではない。同じ日本語のなかでもぼくらは、「人格」がどんどん変わっていゆくのを感じてはいないだろうか。たとえば、じぶんのことを「ぼく」と呼ぶか「わたし」と呼ぶか、それとも「わし」とか「うち」、あるいは「おいどん」やら「まろ」やら「ちん」やら、一人称を変えることで、ぼくらは違う人格をまとってゆく。

娘たちは、こういうのを「キャラ設定」とか言っていたはずだ。小学校から中学校、中学から高校へと進学するとき、彼女たちはつねに、多かれ少なかれ、自分のキャラ設定を意識し、それで苦労もしてきたようだ。じつのところぼくも自分の中学のころことを思い出してみれば、恥ずかしながらそのころ寡黙なキャラに憧れてて(ゴルゴ13とかワイルドセブンのヒバちゃんね)、おしゃべりな自分とのギャップに悩んだ(?)こともあるのだ。ハハハ。

そんなキャラ設定は、相手が代わり、場所が変わり、状況が変わると、どんどん変化してゆく。キャラを、人格を、変化させないとやってゆけないのだ。たんてきにいって、日本語の敬語は、比較的かなり極端なかたちでこれを意識させるもの。

たとえば、部下が上司に向かって、「わしは...」という一人称をとることは許されない。じつはぼくも、岡山から東京に出てきたときは、じぶんのことを「わし」とか「わしゃのぅ」などと言って、まわりの女子から総スカンを食った経験がある。

それはいわば「いなかっぺ大将」の経験だった。『いなかっぺ大将』の「わし〜だス」が笑えたのは、青森の「田舎」からの「上京」という状況において、キャラ設定が変わらないことにある。人はだれも、時と場所と相手をわきまえて、キャラを変える。人格を変える(整える)。きちんとキャラを変えること、人格を整えること。そこに日本語はうまく適応している。あるいは適応させられている。一人称を変化させるのが日本語の常態なのだ。

ところが「いなかっぺ大将」は「わし」の人称を変えようとしない。あるいは変えられない。ぼくはしばらく頑張ったが、けっきょくは「わし」を捨てることになる。きがつけばあのころの「わし」の人格は、おそらく友人たちの記憶のなかに残り(あるいはすっかり忘れられ)、いまの「ぼく」の人格へと変化したわけだ。だから「いなかっぺ大将」にはロマンがある。「わし」が変わると、それはもう「いなかっぺ」ではない。変わらないことが笑いにもなるが、それは同時にロマンでもある。そんなロマンがあのアニメの根っこにあった。それは、実際にはコロコロ変わる(変えねばならない)人称のうつろいに、頑として抵抗している。人称とともに人格がコロコロ変わるような、そんな「いいかげんさ」が庶民的であるならば、人格に一貫性をもたせ、どこまでもキャラを貫くことが、あそこでは問われていたのかもしれない。

そういえば、日本語の一人称については、こんな興味深い記事もあった。まさにキャラ設定に悩む女子が、ひとつの創造的飛躍をした記録とでもいえばよいのだろうか。

withnews.jp

閑話休題。ともかくも、「言葉と思考」に関しては留保しておくが、言葉は、少なくともパーソナリティ、あるいは人格と、かなり密接な関係があるというのが、ぼくの直感だ。

ぼくは言語と人格、あるいは言語とキャラは、ほとんど不可分だと思っている。さきに人格があって、そこから言語が生まれるのではなく、その言語があるから、それらしき人格が現れてきて、現れてきた人格によってさらに言語が変化してゆく、そんな相互に影響しあう関係にあると思っているのだが、ふつうはそんなふうには考えられていないのだろう。

それはたとえば、人格形成とか。人格教育とか、人格者という理想が語られるときに顕著な気がする。教育は、どこまでも一貫性があり、不変で、それゆえに立派な人格を形成するのが崇高な目的である。そんなふうに語れば、多くの人がああそうなんですねと納得するのではないだろうか。けれどもぼくにはとても、そんなことができるとは思えない。そもそも人格なんて、なにか実体として形成できるものなのだろうか?

じつのところ人格は実体ではないのだが、そのあたりにことを以下に、すこし語源的に考えておきたい。そもそも「人格」 personality という言葉は、語源的にはラテン語のペルソナ persona に遡る。ペルソナ persona というラテン語は、おそらく直接的には、エトルリアの墓に描かれた正体不明の仮面ダンサーを意味する「ペルス」に由来しているらしい。

エトルリア人たちは交易の民だから、ギリシャ文化の影響も受けていた。だからこの Pherus という言葉は、ギリシャ語の「プロソーポン prósōpon」を取り込んだのだと考えられている。この「プロソーポン」は仮面のことであり、仮面をとおして表現される舞台の登場人物のことを意味していた。

つまり、ペルソナ、あるいは仮面とは、本来的には舞台で俳優たちがかぶる面(おもて)のことであり、仮面はあくまで仮の面であり、それ自体は空虚なものだったというわけだ。

さて、ラテン語の persona という言葉だが、それはのちに、キリスト教において三位一体説を説明する重要な用語「位格 perosna」となる。すなわち、「神とは、1つの実体 substanza と3つの位格(persona)〔父なる神、子なる神、精霊〕において、永遠に存続する」というわけだ。

たしかに、ただ「3つの位格 perosna 」といわれるとピンと来ない。しかし、これを「3つの仮面 persona」と言い換えると、なんだか分かるような気がしてくる。なにしろ、ここで「実体 substanza」と言われてるものは、じつのとおろ「sub - stanza 下に・あるもの」ということ。そういうものとしての神、つまり「実体=底にあるもの」(substanza)として神はひとつだけれど、現れるときには3様の現れ方をする。つまり神は、3つの仮面 persona をかぶりわけて現れるというふうに読めるわけだ。

これを演劇でいうなら、「神」は、場面によって父の仮面をかぶり、ときには子の仮面、そしてときには精霊の仮面をかぶって現れる。仮面はそれぞれ違うが、いずれも神なのだ。もっと言えば、あらゆる局面において大切な役割をはたす「登場人物たち persona」 、それらの「底にあるもの substanza 」は、たったひとつの「実体 substanza 」としての神なのだ。

しかし、実体 substanza としての神とは、あくまでも背後に控える存在であり、「底にあるもの」 substanza として隠れている。隠れているものの姿は、ぼくらには見えない。見えるのはあくまでも「仮面 persona 」であり、その「演技 rappresentazione 」なのだ。

にもかかわらず、ぼくらがそこに神を見たと思うとすれば、神とはぼくらの「思い」にすぎない。そして、その「思い」が生まれるところは、舞台におけるペルソナたちの戯れであり、あのエトルリアの墓の仮面男ペルスの謎の踊りのように、見るものを引きつけておいて、そこに意味を読み取るようにいざなう謎なのではないだろうか。謎は意味への誘惑だ。その誘惑は意味を与えないことで誘惑する。

くりかえそう。神とは、ペルソナたちの戯れによって、ぼくがたちがそこへと誘惑される謎なのだ。仮面・ペルソナ・位格、その戯れの下にはただ舞台があるだけなのだが、その舞台を支えている「下にあるもの substanza 」=実体は、ぶたいの上に姿を現すことはないし、そもそもそんなことはできないわけだ。

だから観客が、いくら責任者出てこいと叫んでじも、舞台に引きずり出された誰か責任者は、彼もまた責任者の仮面を被った誰かにすぎず、ましてや舞台に立つ限りで、その「下にあるもの」ではありえない。つまり、責任者や、ましてや神を表舞台に引き出そうとする試みは、それが substanza を舞台の上にあげようとする試みであるかぎり、つねに失敗することが定められている。そこには仮面の、ペルソナの、戯れしかない。

ひとつの substanza とは、それを「神」と呼ぼうが「謎」と呼ぼうが「運命」と呼ぼうが、その言葉もまた、ただ仮面 persona の戯れとなって、どこまでも空虚にひろがる無限の容器に、観客の希望と絶望と欲望を飲み込み、飲めば飲むほどに、すこしずつ姿を現してくる仮面の神々の祝宴の、その「下にあるもの」にとどまりつづける。

そんな substanza が「実体」と訳される文脈は、哲学史をひもといてもらうことにして、謎として舞台の下にあるはずの、姿の見えないなにものかを、あたかも見えるかのように、あたかも姿があるかのように、とりだしてきて目の前に見せられるように振る舞うのが、たぶん、「現前の形而上学」とかよばれるものなのだろう。人格を実体と混同し、実体を現前として形而上学的にとらえるのが、いわゆる人格教育とか人格形成の思想に背後にあると言うと、いいすぎだろうか。

ペルソナは仮面にすぎない。それは仮象なのだけど、ぼくらはそれしか見ることを許されていない。そこからしか、考えられない。ペルソナの向こう側には、ただ空があるだけなのだが、それでも舞台のうえで、ペルソナが言葉を話し始めるとき、ぼくらはそこになにかを聞き取り、その聞き取ったものをぼくらもまた、生きることになる。

ペルソナの言葉は、仮面を通して響く per- sonare ものであるかぎり、言葉が変われば、仮面も変わる。あるいは仮面が変われば言葉もかわる。それはあくまでも、舞台における役割 pars (parte )であり、この部分 pars (parte)を通してしか、ぼくらは正の全体に触れることはゆるされていないということなのかもしれない。

 

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

 
完全言語の探求 (叢書ヨーロッパ)

完全言語の探求 (叢書ヨーロッパ)

 

 

 

 

映画が産声をあげるところ

f:id:hgkmsn:20190122203145j:plain
f:id:hgkmsn:20190123091921j:plain
2019/1/22@早稲田大隈講堂



映画が産声を上げるところ。そんな場所があるとすれば、たとえば昨日の大隈講堂の上映会もそのひとつなのかもしれない。

以下、備忘のために。

1本目は『ふたたま』:

冒頭こそ逃してしまったけれど、ぼくには安部公房の短編と思えるようなイメージをめざして、悪戦苦闘する映像は悪くない。ポロリと落ちてくるタピオカ玉に近所のタピオカ茶屋にたむろする女子高生たちの姿を思い出し、あのニラ光線には、ぼく自身の亡き母が、当時流行りのミキサーで作ってくれたニラジュースを一気にのんで吐き出したときの気分が、ふと蘇る。アパートの扉、カーテン、窓、そんな仕切りの幕が、「皆殺しの天使」的なバウンダリーのようでありながら、もっと、ふわふわした実態としてゆらめいている。

2本目の『もぐら』:

なんといっても「せんべいおにぎり」につきる。ともかく映画的なのは、夜のイメージの拙いなかにもハットさせるような美しさ。そして車。そもそもルミュエールのはじめより移動するマシンとしての機関車、自動車、自転車、そして飛行機、船などは、すべて映画的であって、それを大画面に映すだけでスペクタクルなのだけれど、この「もぐら」の使われたバンの乗り降りのかない、「せんべいおにぎり」が立ち入ってくるとき、すなわち運動イメージのなかに時間イメージが闖入してくるとき、たとえそこに兄と妹という関係が読み取れなくても(これは上映後のトークで知ることになる)、たしかに運動するイメージのなかに、妙な異物が入ってくることのゾクゾク感を味わうことができた。それにしても、湖ではない湖を、音だけ先行させて、視線の先にちらつかせ、それからちりありとユラユラとネオンのゆらめく水面をはさんで、背中からパンと開いて見せた工場と川と橋と空と兄妹のショットは拍手もの。

3本目は「湛えて」:

個人的なことだけど、大学のとき、一年下の明るい男が海で溺死した。明るくてきれいな彼女がいたのだけど、その時いこう、少しづつ取り戻したその笑顔が大人になっていたのを覚えている。高校の時も、同じ部の友人が交通事故で死んだ。すぐに死んだのではなくて、入院して、そろそろ帰ってくるよなとみんながおもっているある日の朝、とつぜんの訃報が届いたのだ。なんでも輸血の問題だったらしい。そいつとは、同じ女の子をめぐっての、片思いのライバルだったのだけど、ふしぎなことに彼が逝ってしまってから、ほんのつかのまだけど、付き合うことになる。そんなことを思い出したのは、たぶん「湛えて」の映像を見たからだ。じつは見た直後、なんだかモヤモヤしていたのだが、上映後のトークで、実はこの作品が溺死した恋人の話だということを聞いて、ぼく自身の思い出たちと見た映像がふっとリンクすることになったわけだ。もちろんだからといって、もっと映画的な解説が必要だった批判するつもりはない。批判どころか、むしろよけいな台詞や説明がなかったからこそ、あの映像の数々はぼくの記憶に淵に沈んでいたイメージを浮き上がらせる何か攪拌器のようのものとして作用したのだと思う。それはちょうど、うまく書けているのに何らかの事情で断片化した散文や韻文、つまり詩的な想像力のはたらきの痕跡であるなら、それらはいつだってぼくらを触発してくれるようなものなのかもしれない。

4本目が『めぐみ』:

この映画だけは、最後のトークの言葉を必要とせず、映像に縁取られた物語を追うことができた。それにしても、それが上映10分前にレンダリングを終えたばかりだと聞いたときは少々驚いた。生まれてきた赤子が、赤子ではなくて、すでに成人だったような、そんな驚きだ。もちろん、ぼくらは赤子の姿や、夜泣きや明け方の授乳にヘトヘトになった親たちのボロボロの姿を見てはいない。親たちが、そしてコミュニティの人々が、大切に育て上げた子どもが、世の中に一歩踏み出すところに立ち会っただけなのだ。けれどもそれは、映画が生まれる瞬間であり、その瞬間だけに味わえる喜びにほかならない。生まれ前に生まれる幸福を味わうことができないように、生まれる前の映画もまた上映される映画が劇場という暗闇のなか、スクリーンとそれを見つめる眼差しの間に、すっくと立ち上がる喜びを知らない。すでにめぐまれているのにめぐまれていることを感じられないのが、おそらくは、ぼくたちすべてについてまわる運命なのだ。だから、誕生はつねに遅れてやってくる。そして遅れてやってくる誕生こそが時間をひらく。「めぐみ」のめぐみによる、キャンパスに向かうその眼差しのなかに、あの時間イメージがひらかれたのだ。

www.waseda.jp