雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ジョヴァノッティのアモーレ、ダンテのアモーレ

www.youtube.com

 ジョヴァノッティを知ったのはたぶんこの曲だったと思う。NHKのテレビイタリア語が始まったのは1990年だけど、この曲はその4年後に発表されている。たしか、ちょうどそのころ出演しはじめたダニオ・ポニッシさんが番組のなかで紹介してくれたのだろう。イタリアのラップなんて珍しいなと思いながらも、言葉のリズムがヒップホップのビートに実にみごとに乗っているのに驚いた記憶がある。

 「セレナータ・ラップ」は片思いの曲。「いとしの人よ、窓から顔を出しておくれ Affacciati dalla finestra, amore mio 」というサビからもわかるように、大好きな相手にどうしても告白できない切なさから、せめて顔だけでも見せて欲しいという気持ちをラップにしたもの。多くの人が誤解しているけれど、イタリア人だってシャイなやつはいるわけで、大好きな女性に告白するのはそんなに簡単なことではない。東京だってローマだって、大都会で好き相手と出会うのは、あるいみ奇跡みたいなものなのだ。

 そんな曲を思い出したのは、歌詞のなかの次の一節を思い出したから。YouTube の映像では 3.05 あたり。そこにはこうある。

Amor che a nullo amato amar perdona porco cane
lo scriverò sui muri e sulle metropolitane
di questa città milioni di abitanti
che giorno dopo giorno ignorandosi vanno avanti

最初に聞いたとき、 この"Amor che a nullo amato amar perdona"については、深く考えた記憶がない。その他の部分を訳してみると、こんな感じになるだろうか。

Amor che a nullo amato amar perdona 」すげえなこん畜生

この言葉はあちこちの壁やあちこちの地下鉄に書いておかなきゃ

何しろこの街に住んでる何百万もの人々ときたら

来る日も来る日もお互い知らんぷりで通り過ぎてゆくのだから

ようするに、なにか標語のようなものなのだ。それをジョヴァノッティは、「すげえなこん畜生(porco cane; "汚れた犬" の意) 」と罵るように称揚すると、町中の孤独な人々に読んでもらいたいと願うのだが、そのどこがすごいのか、当時のぼくにはよくわからなかった。ネットでさっと調べられるような便利な時代でもなかったのだ。

それが今朝のことだ。ある友人のツイートで、その一節がダンテの『神曲』(地獄篇第5歌103)からのものだと知ったのである。

 そうだったんだ、と思いながらネットで調べてみると(便利な時代になったものだ)、詩聖ヴェルギリウスと地獄に入ったダンテが、肉欲の罪を犯したものたちが落とされる谷で、死んでのちも二人離れずにいるパオロとフランチェスカ*1の魂に出会うくだり。ダンテに頼まれ、フランチェスカは身の上を語りはじめる。夫ある身でありながら、どうして夫の弟であるパオロと関係を結んでしまったのか。アモーレのためだというのである。

最初のスタンツァから見てみよう。

Amor, ch'al cor gentil ratto s'apprende,

prese costui de la bella persona

che mi fu tolta; e 'l modo ancor m'offende.


アモーレ(愛)は 優しい心をすぐに占めてしまいます
だからあの人は わたしの美しい身体がゆえ 愛に捉えられたのです
身は奪われた私ですが、その時のことを思うと今なお心乱れるのです

  このスタンツァで語られるのはパオロのアモーレだ。そもそも「アモーレはいつも優しい心に住まう」(Al cor gentil rempaira sempre amore)と言われる。パオロがそうなのだ。だからアモーレが彼を捉える。姿形のないアモーレは、具体的には「美しい身体 la bella persona 」を通して働くわけなのだが、それはまさに現世のフランチェスカの肉体にほかならない。地獄に落ちた彼女からその肉体は「奪われてしまった」のだが、それでもなお、アモーレに捉えられたパオロに愛される「その愛され方('l modo)」を思えば、「いまなお心乱れる amcor m'offende」というわけだ。

 第一のスタンツァがパオロに「恋心が生まれる」ところを歌ったとすれば、次のスタンツァではそれがフランチェスカにおいてどう展開するかが記されるのだが、その冒頭の1行こそは、ジョバノッティの引用した一節だ。

Amor, ch’a nullo amato amar perdona,

mi prese del costui piacer sì forte,

che, come vedi, ancor non m’abbandona.


アモーレ(愛)は 愛された者が愛し返さなければ許しません
だから私も あの人のかくも大きな喜びがゆえ 愛に捉えられたのです
その人は ご覧のように、今なお私を離してはくれないのです

 最初のスタンツァでもそうだが、ここでもアモーレ(愛)はなにか独立した人格のように表現されていることに注意しておこう。ふつうアモーレといえば「愛する人」のことなのだが、ここでアモーレはパオロでもフランチェスカでもない、なにか第3の人格として振舞っている。それは、人が誰かに「愛された amato」ならば、愛してくれた人をこちらからも「愛する amare」ことを求め、そうしなければ許さない。

 調べてみると*2、ここで動詞 perdonare は「免除する condonare 」の意であり、「どんな人であれ、愛されたなら、愛し返すことを免れさせるようなことはしない」ということ。

 アモーレから「ちゃんと愛し返さないと許さんぞ」と言われたわけだから、目の前で恋心に火がついたパオロの「かくも大きな喜び」を感じて、フランチェスカもまた恋に落ちる。「愛に捉えられた (amor) mi prese 」のだ。

そんなパオロの強い恋心たるや、地獄に落ちても「私を離してはくれない」ほどだというのだが、それはたとえばギュスターヴ・ドレの挿絵に、こんなふうに描かれているというわけだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/Dore_Gustave_Francesca_and_Paolo_da_Rimini_Canto_5_73-75.jpg

最初のスタンツァがパオロにおける恋の芽生え、次のスタンツァがそれに応じてしまうフランチェスカの恋だっとすれば、最後のスタンツァはふたりの行く末を語ることになる。見てみよう。

Amor condusse noi ad una morte.
Caina attende chi a vita ci spense".

愛によってわたしたちはこのような死に至りました。
カインの国へは、わたしたちの命を奪った者が落ちることでしょう。

 注意すべきは「このような死 una morte」という表現。普通の死は「La morte 」と定冠詞で記されるものだが、ご覧のようにここでの死は不定冠詞の「死 una morte 」だ。つまり、パオロとフランチェスコの死は、よく知られているような唯一つの死ではなく、いくつもの形が考えられるなかでの「ひとつの死 una morte 」と考えればよいのではないだろうか。
 *追記:イタリア人の講師と話してたら、この una morte はパオラとフランチェスカが死んでも別れることがなかったという意味じゃないかと指摘された。なるほど、それぞれ別々の死ではなく、文字通り「ひとつの死」に導かれたというわけだ。

 このあたりはダンテの研究者にご教授たまわりたいところだが、あえて私見を述べれば、第2行には、ほかの死のかたちが記されてるように思える。伝説によれば愛するふたりは、パオロの兄でありフランチェスカの夫であるジョヴァンニの手で殺されるのだが、そのジョヴァンニが死ぬときの死は、そこで「カインの国が待つ Caina attende 」ような死なのである。もちろんカインとは、旧約聖書に登場するアダムとイブの息子のひとりであり、神に愛された弟アベルに嫉妬して殺してしまう者のこと。殺人の罪で地獄に落ちるものは、地獄の別の場所、すなわち「カインの国」(Caina)*3 に落ちるということなのだろう。

 話をジョヴァノッティに戻そう。その「セレナータ・ラップ」に引用された『神曲』の一節はこうだった。

Amor, ch’a nullo amato amar perdona

アモーレ(愛)は 愛された者が愛し返さなければ許しません

 恋するジョヴァノッティは、さしずめ第一のスタンツァに描かれたパオロなのだ。ところが大好きなフランチェスカを見つけはしたものの、彼女との距離は遠く、ただ窓越しに眺めるのが精一杯のところ。なんとか近づいて、その恋心を触発するほどに愛してみたい。そうすれば、アモーレが起動する。愛された者は、かならずや愛し返してくれるはずなのだ。

 ダンテを知るものにとって、アモーレこそが宇宙を根本のところで動かす力だというのは明白なのだ。しかし、今そのアモーレは起動しない。加えて、もし起動したとしても、パオロやフランチェスカのような悲劇が待っていないとは言い切れない。人を地獄に落とすことさえあるのがアモーレなのである。

 だからこそ、ジョヴァノッティは宙吊りになって歌うしかない。その優しい心にアモーレは起動し、愛する準備を整えたままで、宙吊りになって、ぼくらに愛を届けようとして歌う。恐れないこと。逃げないこと…

 

その喜びに触発されるとき、

ぼくらは地獄に落ちようが、

愛し返すほかない。

なぜならアモーレは、

そうしないことを許さないものだから。

 

Serenata Rap

Serenata Rap

 
Serenata rap

Serenata rap

  • ジョヴァノッティ
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Serenata Rap (Live @ San Siro 2015)

Serenata Rap (Live @ San Siro 2015)

 
Serenata Rap

Serenata Rap

  • ジョヴァノッティ
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

  

ダンテの日本語訳については、手元にあったこの平川訳を参考にしたけれど、ぼくなりの言葉にしておいたので、文責はぼくにある。まあ、みんなが様々な日本語の訳文を作るのがよいと思うので、みなさんもぜひ訳してみてくださいな。

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)

 

 山川訳は定評があるみたいだけど、訳文が古いとも聞く。いずれにせよ、今回は参照できていない。 

神曲 上 (岩波文庫 赤 701-1)

神曲 上 (岩波文庫 赤 701-1)

 

 一番新しい訳はこれ。読みやすいと評判みたいだけど、まだ買えていない。そのうち書います。

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

 

 ギュスターヴ・ドレの挿絵はいいよね。これも手元にほしいところだな。

ドレの神曲

ドレの神曲

 

 

*1:フランチェスカ・ダ・リミニ - Wikipedia

*2:Amor, ch'a nullo amato amar perdona - Wikipedia

*3:カイーナ Caina とは、カインの弟殺しにちなむ名称で、「肉親を裏切った者たちが堕ちる」場所う。ダンテの地獄では一番下層にある第9圏谷を構成する四つの円のなかで最初のもののこと。 

ユー・バーン・ミー・アップ、訳してみた

あけましておめでとうございます。

お雑煮つくって、おせちを食べて、おとそを飲んで、初詣に行って帰ってきたら、新年早々に、飛び込んできたのがブライアン・イーノのこのツイート。これ、ぼくの大好きなアルバムなのです。

 『エクスポージャー』って、大好きなアルバムなんですけど、これを作ったころのフリップは、たしかニューヨークのポップシーンでブロンディやダリル・ホールみたいなポップアーティストと仕事をしていたんですよね。だから、そんなころに彼は「ひとつの表現手段としてのポップソング」を探求することを思いついたらしいのです。

ポップソングについてフリップは、「ディシプリン」(規律)というなんだか正反対の言葉を使って、こんなふうに説明しています。

「ぼくには3分から4分の間に、失われたエモーションの数々を集め、一音節かそれにも満たない言葉を見つけるのって、崇高なディシプリンだと思うんだ。ひとつの形式のディプリンなんだけど、決して安っぽく粗悪なものなんかではないんだよね」。

"I think it's a supreme discipline to know that you have three to four minutes to get together all your lost emotions and find words of one syllable or less to put forward all your ideas. It's a discipline of form that I don't think is cheap or shoddy"
(Robert Fripp) *1

 いやはや、ポップソングのディシプリンなんてと思っていたら、1981年にまさにそのものずばり『ディシプリン』というアルバムが出てくるわけなのです。そこのころはまだレコードプレイヤーでしたから、文字通りアルバムに針を落とすわけですが、その瞬間の衝撃は忘れられません...
 いずれにせよ、1980年代のキングクリムゾンの復活を準備したのが、この『エクスポージャー』というわけなのですが、このアルバムに参加していたブライアン・イーノがツイートしてくれた『You burn me up I'm a sigarette 』という曲、そんなポップとディシプリンの関係を考えながら聞くと、これがなかなかすごい。 今回は、初めてまともに歌詞を読んでみたのですけど、これもまたすごい。ポップなんだけど、いやはや、なるほどディシプリンというわけだ、なんて思いながら、以下に訳出してみることにしました。

 ではどうぞ。

You burn me up I'm a cigarette
You hold my hand I begin to sweat
You make me nervous
Ooh I'm nervous
It must be real bad karma
For this to be my dharma
With you


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
手を取られると汗をかいちゃう
緊張しちゃうのさ
ほんと緊張する
きっとすっごく悪いカルマにちがいない
そうなるのがぼくのダルマなんだろうな
あなたとね


You burn me up I'm a cigarette

My life with you is a losing bet
You make me crazy
Ooh, ooh I'm going crazy
Your therapeutic antics
Well they really make me frantic
With you


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
あなたといるのは 負けの決まった勝負
気も狂いそうだよ
そうさ、気が狂いはじめてる
そのおふざけは治療的なんだけど
おかげでぼくはほんとに大変
あなたとね


Strategic interaction irreducible fraction
Terminal inaction and a bitter hostile faction
I'm getting anxious
I'm franxious
Transactional diseases are the only thing that pleases
We


戦略的な相互作用のインターアクション
もう割り切れない分数のフラクション
末期の不活性のインアクション
ちょっぴり敵対的な党争のファクション
ちょっと不安になってきた
ぼく不安で壊れそう
アクションのやりとりで病気になるくらいじゃないと
嬉しくないのさ
ぼくらはね


You burn me up I'm a cigarette
Demanding my attention which you're not gonna get
What did the sage mean?
What had the sage seen?
Musical elation is my only consolation
Oh yeah


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
ぼくの注意をひこうとしても そいつは無理って話
聖人はなにを言いたかったのか?
聖人はなにが分かっていたのか?
音楽で高揚する(エレイション)のが
ぼくの唯一の慰安(コンソレイション)なんだ
オー・イエー


Shivapuri Baba: Think of God alone, dismiss every thought from your mind and you will see God

 

シバプリ・バーバ *2 曰く、
神のことだけを想え、精神からすべての思念を払えば神が見えてくる


You burn me up I'm about to ignite
When you tell me you love me I give up this fight
I'm feeling put down
My feelings shut down
I want rejuvenation from my male emancipation


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
愛していると言ってくれたらこんな戦いはやめるさ
着地(プットダウン)する感覚さ
感覚がシャットダウンするのさ
欲しいのは若がりさ
男性として解放されるたいんだよ


Strategic interaction
Terminal inaction
A bitter hostile faction
Irreducible fraction
Transactional diseases are the only thing that pleases
We


戦略的な相互作用のインターアクション
もう割り切れない分数のフラクション
末期の不活性のインアクション
ちょっぴり敵対的な党争のファクション
ちょっと不安になってきた
ぼく不安で壊れそう
アクションのやりとりで病気になるくらいじゃないと
嬉しくないのさ
ぼくらはね


Burn burn
Burn burn burn
You burn me up

燃やして
燃やして
あなたに火をつけられる

  

エクスポージャー(完全版)(紙ジャケット仕様)

エクスポージャー(完全版)(紙ジャケット仕様)

 
Exposure

Exposure

 
Exposure

Exposure

 
ディシプリン

ディシプリン

 
ディシプリン~40周年記念エディション(紙ジャケット仕様)

ディシプリン~40周年記念エディション(紙ジャケット仕様)

 
ディシプリン

ディシプリン

 

 

ジェルソミーナとローザ、あるいは『道』の反復をめぐって

http://www.rainews.it/dl/img/2014/05/1399710676151_Giulietta_Masina_nei_panni_di_Gelsomina_nel_film_premio_Oscar__La_strada__1954.jpg

 

授業でやってる『道』の冒頭のシーンの続き。

 

ここでのダイアローグなんだけど、ポイントはやはりローザの存在。

 

近所の女性がジェルソミーナに近づいて来て言う。


- Te ne vai, Gelsomina? (行くのかい、ジェルソミーナ?)


そこでジェルソミーナは「Parto. Me ne vado. 」(出発よ。行くわ)と答えるのだけど、そのときのト書きに「con stonata baldanzosità 」という指示がある。baldanzoso という形容詞は「自分を信じて、将来を恐れないこと」。そんな「自信と大胆さ」baldanzosità はしかし、どこか「stonato」( 調子っぱずれ)でなければならないわけだよね。

 

そんなジェルソミーナは、女性に「Dove vai? 」(どこに行くの?)と聞かれて、こう答える。

 

- Vado in giro, a lavorare. Vado a lavorare. 

(あちこち回るの、仕事するんだわ。仕事にゆくのよ)

 

その時のセリフにも、「con l’euforia dell’incoscienza 」という指示がある。 euforia というのはある種の興奮状態のことなのだけど、eccitazione と対置される言葉。eccitazione が外部から刺激を受けた結果として「興奮」するのに対して、この euforia というのは、幸福な心理状態の結果としての「興奮」というのがポイント。だから、お酒やドラッグなどの影響でうれしくなって「興奮状態」になることも言うわけだ。語源はギリシャ語の[ euphoría ] だけれど、これは副詞「 êu ‘bene’ (よく)」と動詞「 phérein ‘portare’ (保持する)」から成るコトバで、「いい感じを保っている」ということになる。

 

ようするにジェルソミーナは、何かに酔ったように興奮しているわけだけど、そこに「dell’incoscienza」(無意識の)という限定があるのはどういうことか?ジェルソミーナの〈無意識〉とはなにかを考えながら、セリフの続きを聞いてみよう。

 

- M’insegno un mestiere, poi mando i soldi a casa… 

(仕事を覚えるのよ、そして家にお金を送るわ)

 

貧乏な家だ。頭のたりない厄介者だったジェルソミーナにすれば、仕事ができること、そして家に送金できることは、大変な喜びだ。しかし、この「興奮」(euforia)は〈無意識〉のものではない。それが姿を見せるのは続くセリフ。

 

- Lavora sulle piazze, fa l’artista. 

(仕事は広場を回るの、芸人なのよ)

 

ふたつの動詞 lavora と fare が3人称の単数形であることがポイント。学校イタリア語では、主語が変わるときは明示せよと教えるのだが、ここでは、なんの前触れもなく、あたりまえのように、1人称から3人称に移行している。その3人称の主語は誰か。ふつうに考えればザンパノなのだが、ジェルソミーナの脳裏では、あの〈無意識〉が顔をもたげているのだ。

- Faccio anch’io l’artista, suonare, cantare… Vado a lavorare anch’io come Rosa… 

(わたしも芸人になるの、歌ったり、おどったりするの。働くのよ、ローザみたいに…)

 

そうなのだ。ジェルソミーナの3人称に姿を見せるのは、つい今しがた亡くなったことが伝えられた姉のこと。かつてザンパノに連れてゆかれ、広場を回って歌って踊り、貧乏な家に仕送りをしてきた

ローザの記憶なのである。だからこそト書きには、ジェルソミーナがローザの名前を口にした瞬間について、こんな指示が記される。

 

Si interrompe bruscamente, come se il nome di Rosa l’avesse ridestata alla realtà, si incupisce.

(ジェルソミーナは)突然にセリフが途切れると、ローザの名前によって現実に引き戻されたかのように、表情が暗くなる。

 

このト書き、下手な監督ならジェルソミーナのアップで応じるのだろうが、フェリーニは背後からの引きのショット。彼女の表情の変化をうかがわせない。それでも中断したセリフに、「いつ帰るの?(Quando torni?)」という無邪気な問いが投げかけられとき、背中を見せていたジェルソミーナは、母のほうを振り返ると、動揺の隠せない表情でこう口にする。

 

- Quando torno? 

(いつ帰るのかな?)

 

ここでも動詞の人称変化がポイント。女性がジェルソミーナに2人称 (torni) で問いかけた「いつ帰る? (Quando torni?)」  は、1人称 (torno) を使って「いつ帰るのだろう?(Quando torno?) 」となる。形のうえでは「自分はいつ帰ることができるのか?」と母に尋ねているのだが、もちろん母に答えられるはずもなく、実のところその問いは自問としてジェルソミーナ自身につきささりながら、彼女の「無意識」の扉を開くのだ

 

こうしてジェルソミーナは、一瞬黙り込むが、次の瞬間、ザンパノのバイクにむかって突然に走り出す。ト書きには「まるで恐怖と悲しみから逃れるかのように」と記されるのだが、そんなジェルソミーナに母親が叫ぶ。

 

- Non ci andare! Figlia mia, non ci andare! 

(往かないでおくれ。わたしの娘よ、行かないでおくれ)

 

じつのところ、この母親、ローザの代わりにザンパノと仕事に行って欲しいと頼み、こんなにお金をもらったんだよと言った、その母なのだ。

 

ところで、授業ではここで、こんな質問が出た。「この母親は、最初娘を売り飛ばした悪いやつだと思っていたのだが、ここではちゃんと母親らしいことを言う。いったいどちらが本当なのだろうか?悪い母なのか良い母なのか?」。すぐにこんな答えが飛び出す。「どっちもなんじゃないの」。

 

善と悪の話に入り込むつもりはなかったのだけれど、思い出したのは『ゼブラーマンゼブラシティーの逆襲』、「瞬間に生きる狼と時間をいきる人間」から善と悪について考察する『哲学者とオオカミ』の逸話、そしてナポリのデ・フィリッポの戯曲『山高帽 il cilindro 』。まあ、それはとりあえず余談。

 

余談はさておき、このシーンの白眉はやはり逃げるように去って行くジェルソミーナと、それを追う母と兄弟姉妹たちの姿は、じつのところ、かつてローザを見送る場面の反復なのである。そして、その反復は、忘れられた存在の回帰にほかならず、だからこそ「無意識」の扉を開くと、そこから、いいようのない恐怖と耐えられない悲しみが吹き出し来る。そんな冒頭のシーンは、さらにラストシーンに反復され、さらにはフェリーニという作家の人生の節目を形作るものとなってゆくのである。

 

f:id:hgkmsn:20171223160140j:plain

Federico Fellini, I primi Fellini (Garzanti)  pp.184-185。

 

道 Blu-ray

道 Blu-ray

 

 

ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲- [Blu-ray]

ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲- [Blu-ray]

 

 

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン