雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ユー・バーン・ミー・アップ、訳してみた

あけましておめでとうございます。

お雑煮つくって、おせちを食べて、おとそを飲んで、初詣に行って帰ってきたら、新年早々に、飛び込んできたのがブライアン・イーノのこのツイート。これ、ぼくの大好きなアルバムなのです。

 『エクスポージャー』って、大好きなアルバムなんですけど、これを作ったころのフリップは、たしかニューヨークのポップシーンでブロンディやダリル・ホールみたいなポップアーティストと仕事をしていたんですよね。だから、そんなころに彼は「ひとつの表現手段としてのポップソング」を探求することを思いついたらしいのです。

ポップソングについてフリップは、「ディシプリン」(規律)というなんだか正反対の言葉を使って、こんなふうに説明しています。

「ぼくには3分から4分の間に、失われたエモーションの数々を集め、一音節かそれにも満たない言葉を見つけるのって、崇高なディシプリンだと思うんだ。ひとつの形式のディプリンなんだけど、決して安っぽく粗悪なものなんかではないんだよね」。

"I think it's a supreme discipline to know that you have three to four minutes to get together all your lost emotions and find words of one syllable or less to put forward all your ideas. It's a discipline of form that I don't think is cheap or shoddy"
(Robert Fripp) *1

 いやはや、ポップソングのディシプリンなんてと思っていたら、1981年にまさにそのものずばり『ディシプリン』というアルバムが出てくるわけなのです。そこのころはまだレコードプレイヤーでしたから、文字通りアルバムに針を落とすわけですが、その瞬間の衝撃は忘れられません...
 いずれにせよ、1980年代のキングクリムゾンの復活を準備したのが、この『エクスポージャー』というわけなのですが、このアルバムに参加していたブライアン・イーノがツイートしてくれた『You burn me up I'm a sigarette 』という曲、そんなポップとディシプリンの関係を考えながら聞くと、これがなかなかすごい。 今回は、初めてまともに歌詞を読んでみたのですけど、これもまたすごい。ポップなんだけど、いやはや、なるほどディシプリンというわけだ、なんて思いながら、以下に訳出してみることにしました。

 ではどうぞ。

You burn me up I'm a cigarette
You hold my hand I begin to sweat
You make me nervous
Ooh I'm nervous
It must be real bad karma
For this to be my dharma
With you


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
手を取られると汗をかいちゃう
緊張しちゃうのさ
ほんと緊張する
きっとすっごく悪いカルマにちがいない
そうなるのがぼくのダルマなんだろうな
あなたとね


You burn me up I'm a cigarette

My life with you is a losing bet
You make me crazy
Ooh, ooh I'm going crazy
Your therapeutic antics
Well they really make me frantic
With you


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
あなたといるのは 負けの決まった勝負
気も狂いそうだよ
そうさ、気が狂いはじめてる
そのおふざけは治療的なんだけど
おかげでぼくはほんとに大変
あなたとね


Strategic interaction irreducible fraction
Terminal inaction and a bitter hostile faction
I'm getting anxious
I'm franxious
Transactional diseases are the only thing that pleases
We


戦略的な相互作用のインターアクション
もう割り切れない分数のフラクション
末期の不活性のインアクション
ちょっぴり敵対的な党争のファクション
ちょっと不安になってきた
ぼく不安で壊れそう
アクションのやりとりで病気になるくらいじゃないと
嬉しくないのさ
ぼくらはね


You burn me up I'm a cigarette
Demanding my attention which you're not gonna get
What did the sage mean?
What had the sage seen?
Musical elation is my only consolation
Oh yeah


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
ぼくの注意をひこうとしても そいつは無理って話
聖人はなにを言いたかったのか?
聖人はなにが分かっていたのか?
音楽で高揚する(エレイション)のが
ぼくの唯一の慰安(コンソレイション)なんだ
オー・イエー


Shivapuri Baba: Think of God alone, dismiss every thought from your mind and you will see God

 

シバプリ・バーバ *2 曰く、
神のことだけを想え、精神からすべての思念を払えば神が見えてくる


You burn me up I'm about to ignite
When you tell me you love me I give up this fight
I'm feeling put down
My feelings shut down
I want rejuvenation from my male emancipation


あなたに火をつけられる ぼくはシガレット
愛していると言ってくれたらこんな戦いはやめるさ
着地(プットダウン)する感覚さ
感覚がシャットダウンするのさ
欲しいのは若がりさ
男性として解放されるたいんだよ


Strategic interaction
Terminal inaction
A bitter hostile faction
Irreducible fraction
Transactional diseases are the only thing that pleases
We


戦略的な相互作用のインターアクション
もう割り切れない分数のフラクション
末期の不活性のインアクション
ちょっぴり敵対的な党争のファクション
ちょっと不安になってきた
ぼく不安で壊れそう
アクションのやりとりで病気になるくらいじゃないと
嬉しくないのさ
ぼくらはね


Burn burn
Burn burn burn
You burn me up

燃やして
燃やして
あなたに火をつけられる

  

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ジェルソミーナとローザ、あるいは『道』の反復をめぐって

http://www.rainews.it/dl/img/2014/05/1399710676151_Giulietta_Masina_nei_panni_di_Gelsomina_nel_film_premio_Oscar__La_strada__1954.jpg

 

授業でやってる『道』の冒頭のシーンの続き。

 

ここでのダイアローグなんだけど、ポイントはやはりローザの存在。

 

近所の女性がジェルソミーナに近づいて来て言う。


- Te ne vai, Gelsomina? (行くのかい、ジェルソミーナ?)


そこでジェルソミーナは「Parto. Me ne vado. 」(出発よ。行くわ)と答えるのだけど、そのときのト書きに「con stonata baldanzosità 」という指示がある。baldanzoso という形容詞は「自分を信じて、将来を恐れないこと」。そんな「自信と大胆さ」baldanzosità はしかし、どこか「stonato」( 調子っぱずれ)でなければならないわけだよね。

 

そんなジェルソミーナは、女性に「Dove vai? 」(どこに行くの?)と聞かれて、こう答える。

 

- Vado in giro, a lavorare. Vado a lavorare. 

(あちこち回るの、仕事するんだわ。仕事にゆくのよ)

 

その時のセリフにも、「con l’euforia dell’incoscienza 」という指示がある。 euforia というのはある種の興奮状態のことなのだけど、eccitazione と対置される言葉。eccitazione が外部から刺激を受けた結果として「興奮」するのに対して、この euforia というのは、幸福な心理状態の結果としての「興奮」というのがポイント。だから、お酒やドラッグなどの影響でうれしくなって「興奮状態」になることも言うわけだ。語源はギリシャ語の[ euphoría ] だけれど、これは副詞「 êu ‘bene’ (よく)」と動詞「 phérein ‘portare’ (保持する)」から成るコトバで、「いい感じを保っている」ということになる。

 

ようするにジェルソミーナは、何かに酔ったように興奮しているわけだけど、そこに「dell’incoscienza」(無意識の)という限定があるのはどういうことか?ジェルソミーナの〈無意識〉とはなにかを考えながら、セリフの続きを聞いてみよう。

 

- M’insegno un mestiere, poi mando i soldi a casa… 

(仕事を覚えるのよ、そして家にお金を送るわ)

 

貧乏な家だ。頭のたりない厄介者だったジェルソミーナにすれば、仕事ができること、そして家に送金できることは、大変な喜びだ。しかし、この「興奮」(euforia)は〈無意識〉のものではない。それが姿を見せるのは続くセリフ。

 

- Lavora sulle piazze, fa l’artista. 

(仕事は広場を回るの、芸人なのよ)

 

ふたつの動詞 lavora と fare が3人称の単数形であることがポイント。学校イタリア語では、主語が変わるときは明示せよと教えるのだが、ここでは、なんの前触れもなく、あたりまえのように、1人称から3人称に移行している。その3人称の主語は誰か。ふつうに考えればザンパノなのだが、ジェルソミーナの脳裏では、あの〈無意識〉が顔をもたげているのだ。

- Faccio anch’io l’artista, suonare, cantare… Vado a lavorare anch’io come Rosa… 

(わたしも芸人になるの、歌ったり、おどったりするの。働くのよ、ローザみたいに…)

 

そうなのだ。ジェルソミーナの3人称に姿を見せるのは、つい今しがた亡くなったことが伝えられた姉のこと。かつてザンパノに連れてゆかれ、広場を回って歌って踊り、貧乏な家に仕送りをしてきた

ローザの記憶なのである。だからこそト書きには、ジェルソミーナがローザの名前を口にした瞬間について、こんな指示が記される。

 

Si interrompe bruscamente, come se il nome di Rosa l’avesse ridestata alla realtà, si incupisce.

(ジェルソミーナは)突然にセリフが途切れると、ローザの名前によって現実に引き戻されたかのように、表情が暗くなる。

 

このト書き、下手な監督ならジェルソミーナのアップで応じるのだろうが、フェリーニは背後からの引きのショット。彼女の表情の変化をうかがわせない。それでも中断したセリフに、「いつ帰るの?(Quando torni?)」という無邪気な問いが投げかけられとき、背中を見せていたジェルソミーナは、母のほうを振り返ると、動揺の隠せない表情でこう口にする。

 

- Quando torno? 

(いつ帰るのかな?)

 

ここでも動詞の人称変化がポイント。女性がジェルソミーナに2人称 (torni) で問いかけた「いつ帰る? (Quando torni?)」  は、1人称 (torno) を使って「いつ帰るのだろう?(Quando torno?) 」となる。形のうえでは「自分はいつ帰ることができるのか?」と母に尋ねているのだが、もちろん母に答えられるはずもなく、実のところその問いは自問としてジェルソミーナ自身につきささりながら、彼女の「無意識」の扉を開くのだ

 

こうしてジェルソミーナは、一瞬黙り込むが、次の瞬間、ザンパノのバイクにむかって突然に走り出す。ト書きには「まるで恐怖と悲しみから逃れるかのように」と記されるのだが、そんなジェルソミーナに母親が叫ぶ。

 

- Non ci andare! Figlia mia, non ci andare! 

(往かないでおくれ。わたしの娘よ、行かないでおくれ)

 

じつのところ、この母親、ローザの代わりにザンパノと仕事に行って欲しいと頼み、こんなにお金をもらったんだよと言った、その母なのだ。

 

ところで、授業ではここで、こんな質問が出た。「この母親は、最初娘を売り飛ばした悪いやつだと思っていたのだが、ここではちゃんと母親らしいことを言う。いったいどちらが本当なのだろうか?悪い母なのか良い母なのか?」。すぐにこんな答えが飛び出す。「どっちもなんじゃないの」。

 

善と悪の話に入り込むつもりはなかったのだけれど、思い出したのは『ゼブラーマンゼブラシティーの逆襲』、「瞬間に生きる狼と時間をいきる人間」から善と悪について考察する『哲学者とオオカミ』の逸話、そしてナポリのデ・フィリッポの戯曲『山高帽 il cilindro 』。まあ、それはとりあえず余談。

 

余談はさておき、このシーンの白眉はやはり逃げるように去って行くジェルソミーナと、それを追う母と兄弟姉妹たちの姿は、じつのところ、かつてローザを見送る場面の反復なのである。そして、その反復は、忘れられた存在の回帰にほかならず、だからこそ「無意識」の扉を開くと、そこから、いいようのない恐怖と耐えられない悲しみが吹き出し来る。そんな冒頭のシーンは、さらにラストシーンに反復され、さらにはフェリーニという作家の人生の節目を形作るものとなってゆくのである。

 

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Federico Fellini, I primi Fellini (Garzanti)  pp.184-185。

 

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哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン

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Una bocca di meno da sfamare... (フェリーニの『道』より)

 

https://www.jukolart.us/federico-fellini/images/1628_16_20-strada-gelsomina.jpg

フェリーにの『道』のセリフだけど、先日、中級の授業で質問が出た箇所がこれ。

T'impara un mestiere anche a te
e guadagni qualcosa anche te
e qui in casa è una bocca di meno da sfamare...
(Dalla battuta di Madre, "La strada" in IL PRIMO FELLINI [Cappelli, 1969], P.184) 

ここで imparare の主語は Zampanò で2人称 tu はGelsomina のこと。直前に Al posto di Rosa? 「ローザの代わりに(行ってくれないか)?」とあるから、imparare は「学ぶ」ではなく「教える」*1

日本語にすればこんな感じかな。

(ザンパノは)おまえにだって何か仕事を教えてくれるし、

そうすりゃお前だって少しは稼げるし、

うちだってひとり飢えなくてすむんだよ...

それにしても「una bocca di meno da sfamare」って優しくも残酷なセリフだな。sfamare は [s + fame + are]の形だねから「空腹(fame)を取り除く」という意味。貧乏であることの最大の苦しみは、子どもを「飢えから救う」(sfamare) ことができないときの無力感なんだよな。

それにしてもブルーレイはいいわ。修復されているのもあるけど、DVDよりも画質がぐっと上がることで、映画の印象がぜんぜんちがうんだもの。

 

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*1:Deto-Oli には「通俗的 Popolare」として「 Insegnare (anche + a): te lo imparo io(私が教えてやろう)」とある