雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ヴィスコンティ『Cadaveri』(1941)を訳してみた

http://www.culturagay.it/public/imgs/visconti2.jpg

今年の朝日カルチャーセンター(横浜)のイタリア映画講座は、ルキノ・ヴィスコンティについて話している。昨日はその第2回目だったのだけど、いつもにまして多くの受講者がこられてうれしい限り。さすがにフェリーニよりも人気がありますねと言われると、少し複雑なんだけど、それはそれ。

さて昨日の話は『夏の嵐』(1954) について。この作品でヴィスコンティは、当時の観客を驚かせたらしい。というのも、それまでネオレアリズの作家と思われていたのに、どうみてもメロドラマだから。日本でも、ヴィスコンティは好きだけど『夏の嵐』はちょっとという人がいるし、ぼく自身、最初はよくわからなかった。

でも、ヴィスコンティの人生とその作品を、少し追いかけてみると、いろいろなことが見えてくる。ぼくの場合は、ヴィスコンティのデビュー作『郵便配達は2度ベルを鳴らす Ossessione 』(1942)を見て、ああ、これはすごいなと思ったわけ。

第2次世界大戦のさなかに撮られた『郵便配達は2度ベルを鳴らす』から見て行くと、ヴィスコンティの作品世界には一貫したものが見えてくる。一貫性が見えたら、今度は思い切った飛躍とか、展開もが浮き上がってくるわけ。だから以前に『郵便配達は2度ベルを鳴らす』を撮った直後、雑誌 Cinema に寄稿された論文 Cinema antropomofico を訳出しておいたのだけど、 今回はデビューする前、1941年に発表された小論 Cadaveri を訳出しておこうと思う。

ヴィスコンティはちょうど35歳。70歳で亡くなっていることを考えると、人生のちょうど折り返し点。それまで貴族として暮らしてきたミラノを捨て、新しい表現としての映画に自分の人生を賭けるべく、おそらくは希望に燃えてローマにやってはきたころ。ところが、この小論からは、映画産業にはびこるお偉方たちの姿に、おおいに失望し、憤りさえ感じている様子が伝わって来る。なにしろ、映画産業のお歴々のことを Cadaveri (死体)と呼んでいるのだから。

 (訳はまだ仮訳で、わからないところなどまだまだチェックが必要なのだけど、とりあえず、以下に挙げておく。ご笑覧)

 

 

死体

ルキノ・ヴィスコンティ

 

映画会社をまわっていると、自分がまだ生きていると信じてやまない死体に出くわしてうんざりしてしまう。きっと他の人たちも私のような目にあっているのだろうが、そういう輩は出会ってもすぐにそれとわかるわけではない。なにしろ連中は、わたしやみなさんと同じ服装でうろついているのだ。それでも、あの腐敗のプロセスが隠れて進行しているので、すえた臭いがしてくるのが困りもの。一度でも嗅いだことのある者は気付かないではいられない。映画会社が居を構えるモダンな建物に入れば、オフィスはすべて長い廊下に面していて、それぞれの扉に掲げられた同じようなプレートには部屋を占める者の名前が記されているのだが、それはまるで共同墓地の納骨堂さながらなのである。

わたしは偶然に、そんな扉のひとつを開けて、印象的なシーンに出くわしたことがある。ひとりの老人が、部屋を飛び跳ねながら、興奮しながらもなんとか思いを伝えようとしていると、いっぽうにはそれを見つめる同年代の男がいて、喉元から老いた七面鳥のような肉垂をたらして、身じろぎもせず明るい色の木製のひろい机に座り、ウロトロピン(利尿剤)の錠剤をかじりながら、男の動きを追っているのだが、その注意深い眼ざしはまるで、これからウサギをたいらげようとする蛇のようだった。

こうした人間たちは、午後の遅い時間に待ち合わせて、苦しみながら消化を終えると、メロドラマのリブレットをでっちあげるのだが、同じものがすでに世の中にあるのを知らないのは、彼らだけなのだ。もしもみなさんが、こうした紳士の誰かと話をしなければならなくなり、嫌々ながらも、自分の夢や空想や信条を開陳するはめになったなら、そこでみなさんに注がれる夢遊病者のように空虚な眼差の、その曇った眼窩の底から、あの冷たい死が浮かび上がることになるであろう。

みなさんが話すのを前にしている彼らには、まるでポーの小説の登場人物のようなことが起こる。すでに死んでしばらくなるものの、なにか魔法のような強い意思によって身体は朽ちることないままに保たれているのだが、突然にそれが無くなってしまうと、あっという間に崩れ落ちてしまうのだ。

すでに死んでいるのに、時間が進んでいることに気がつかず、もはや消え去ったものの影を生きている。もうすっかり色あせてしまった彼らの世界ではかつて、役者たちがずかずかと紙とチョークでできた舞台の上を動き回り、ふと開いた扉からの風に舞台の背景が揺らめいていたし、薄い折り紙のバラが永遠に咲き続け、様式と時代がみごとなまでにごちゃまぜとなっていた。ようするに、カツラをかぶったリバティスタイルのクレオパトラが、クジラの髭のコルセットを着た恰幅のよいアントニウスを(鞭打ちながら)、その影の部分から血をすすっているような、ありさまだったのだ。

彼らは、花の温室のようなガラス屋根の芝居小屋や、町外れの写真館など、もう無くなったものを懐かしんでいるのだ。

ときにみなさんは、真夜中の12時から1時ごろ、彼らを驚かしてしまうこともあるだろう。まるで寄宿舎の学生が消灯時間のあとに寮を抜け出したところを見つかったときのようなとぼけた顔をすると、次の瞬間には逃げ出して、若い女ともだちのもとに走って行くと、彼女のチョッキに顔を埋めて少しばかり泣せてもらうと思っているのだ。こうして彼らは、どこかのアパートに入って、フェノールが臭う階段を登ってゆくことになる。

それから彼らは、ひどい悪夢に苦しむことになる。朝が来ると突然に飛び起きるのだが、それは肝臓が薬を求めているからで、不確かな部屋の明かりのなかで連中は、自分が今生きているのかも、生き延びたのかもわからないでいる。

連中が映画館に行くことは決してない。今日の若者たちの多くは、今のところ、ただ健全な希望を育みながら育ってはいるものの、じつは多くを言いたくてうずうずしているのだが、その出鼻をくじくのが、あまりにも頭数のいるあの死体なのだ。若者たちが彼らに、意地悪く不信感に溢れる対応をされてしまうのは、じつに悲しいことではないか。

彼らのときは終わったのだ。それなのに、まだ彼らが残っているのは、わけがわからない。もし自分からガラスのショーケースに入ってもらえるのなら、わたしたちはみんなで、お辞儀でもしてさしあげるだろう。ところが連中ときたら、いまだにあまりの数がいて、財布の紐を握り、雨を降らせたり晴れ渡らせたりすることが許されているというのだから、これは物申さずにはいられない。はたしていつの日か、わたしたちの映画がその若い力でもって、「死体は墓地へ」とはっきり口にできる日が来るのだろうか?その日が来れば、きっとわたしたちはみんな、不遜にもぐずぐずしている奴のところに駆け寄り、(傷つけることがないように)敬意を込めて、もう片方の足も墓穴に入るように手伝って差し上げるのだが。

 (Cinema, n. 119, 10 giugno 1941)*1

  

 

夏の嵐 [DVD]

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*1:イタリア語の原文はここ:Cadaveri 

ベルギーのテロをめぐって:ジグムント・バウマンへのインタビュー

ヴェネツィアの友人がFBに投稿していた記事が興味深い。イタリアのコッリエーレ・デッラ・セーラ紙のサイトに掲載されたインタビューなのだが、そのページがこれ。

 

www.corriere.it

 

インタビューに答えているのはジグムント・バウマン(Zygmunt Bauman、1925年11月19日 - )。ぼくは寡聞にしてこの記事で初めて知った人なのだけど、ウィキペディアを見るとこう記されている。

ポーランド出身の社会学者。イギリス・リーズ大学およびワルシャワ大学名誉教授であり、「立法者と解釈者」、「造園管理人と猟場番人」、「固定化と液状化」といったメタファーを巧みに用いて今日のポストモダン社会の考察を深めるマルチ・リンガルの知識人として知られる。 

そんなバウマン教授が、あのベルギーのテロ直後のインタビューで話している内容は、ぼくの読む限り、ヨーロッパの良心とでも言えるもの。できるだけ多くの人に読んでほしいので、まったく専門外なのだけど、誤訳覚悟でイタリア語の記事から、以下にざっと訳出しておくことにする(インタビューの原語は英語あたりだと思うのだが、細かいことは定かではない。わかる人は教えてね)。

 

では、以下拙訳です。どうぞ。

 

バウマン教授、ヨーロッパの議論において、テロリズムと移民の問題は、相互に重なり合って、歪んで見えにくくなっていますね。これではポピュリストたちを利するだけで、難民を「犠牲者」として理解する障害となります。そこでは、議論を安全保障のほうへ移行させらるメカニズムのようなものが働いており、あのブリュッセルのテロ事件を受けてワルシャワが宣言したように、各国の政府の国境閉鎖を正当化しているのです。こうした措置を行うと、どのようなリスクがあるとお考えですか。

 

 

「移民の問題」を、国家や個人の安全保障と同一視し、前者を後者の下に置くようなことを、言葉だけではなく実際に政策として実行すれば、テロリストが目的を遂げるのを助けることになります。それはなによりも、予言が自ら正しさを証明するときの論理にしたがって、ヨーロッパの反イスラム感情に火をつけ、ヨーロッパ人自らが、若いムスリムを説得して双方の間に埋めがたい溝のようなものがあることを納得させるようなものです。こうなると、社会関係に深く根ざす葛藤を聖戦という考え方へと向けるのがずっと容易になります。そこでは、ふたつの生き方が融和不可能なままにとどまり、一方だけが本物の信仰で、もう一方の信心は偽りとされてしまうのです。例えばフランスでは、テロリズムとの関係が疑われるムスリムの若者はせいぜい数千人なのですが、それにもかかわらず、すべてのムスリム、それもとりわけ若者は誰もが「共犯者」とみなされ、実際に罪が犯される前からすでに有罪だとされているのです。こうして、ひとつのコミュニティが手軽な安全弁となって、社会的復讐心に捌け口を与えるものになるのですが、そこでは個々人の有する価値はないがしろにされているしまいます。ひとりひとりが、どれほどの責任感と誠実さをもって市民としてやってゆこうとしているかは、省みられなくなるのです。

 

 

「ホスト社会」と移民との生きた関係を保持することは、相互の不信がたかまる状況では、ますます困難になってきていますね。今日のベルギーのように、攻撃にされされた国々においては、統合の希望を基礎付ける社会契約が吹き飛んでしまったのでしょうか?

 

 

テロリズムの側からすれば、私たちの社会における若いムスリムの生活状況が悪くなればなるほど、彼らをリクルートできる可能性が高まります。もしも、コミュニケーションが文化を超え、異なる民族と宗教のあいだで本物の相互作用の働きが起こることがまったく見通せなくなってしまうと、人が他者と直接的に出会い、「顔と顔を」向き合わせて、相互に理解し合うこともまた、ほとんどできなくなるでしょう。さらには、こうしたグループの全体に汚名をかぶせてしまうということが起こります。そのグループには、そこから切り離しがたい特徴があり、だから、「わたしたち、ふつうの人間」とは違うのだというわけです。その結果、このグループの人々は、押し付けられた疎外感に苛まれることになります。ふつうではないとレッテルを貼られ、社会の中心への出入りが禁止されます。彼らは、公然としてであれ、あるいは心の奥底であれ、できればこの中心に入りたいと思っているのですが、ところが実際にはそこから、帰還の権利なしに追放されているのです。それも、自分たちの劣等生について、普遍的な評決 comune verdetto を受け入れるように強いられたそのあとでの追放なのです。あたかも、クラブに入るためにもとめられる標準をクリアできなかったのは、彼らの方だとでも言わんばかりなのです。このように汚名をかぶせられた人は、自尊心に加えられた打撃に苦しみ、その結果、罪の意識と屈辱に苛まれることになります。 汚名はまた、不当な屈辱として認識されることもあります。不当だからこそ、求められ、正当化される復讐は、社会正義をひっくり返せるほどに激烈なものとなり、それによって、奪われた尊厳の回復が目指されるわけです。

 

どうすれば、共同体のなかのそうした人々と関係を取り戻すことができるのでしょうか、政治には何ができるのでしょうか?

 

各国政府は、市民の恐怖を鎮める事に関心がありません。むしろ、未来が見えないことからくる焦燥を掻き立てることで、不安の矛先をずらし、自分たちでは解決の仕方がわからない問題から、より「メディア的な」な解決ができる問題へと、焦点を移行させるのです。第1の種類の問題には、尊厳ある労働や、社会的な地位の安定性という、人が生きるための条件として非常に重要なものが含まれます。第2のものは、テロルとの戦いですね。もちろん、イスラム社会には過激化への戦いにおいて果たすべき役割があるわけですが、わたしたちが理解しなければならないのは、万人に対する脅威を根絶やしにするには、社会が一丸とならなければだめだということです。テロリズムとの戦いにおいて、ヨーロッパが有する一番の武器は、彼らを社会的に受け入れて統合することなのです。

 

D. Gilmour の In Any Tongue を訳してみた

Rattle That Lock (Deluxe CD+Blu-ray)

 

デヴィッド・ギルモアは、疑いもなく、ぼくらの時代の偉大なソングライターのひとりだ。もちろん偉大なギタリストでもあるけれど、言葉をメロディーに乗せる才能に関しては、誰よりも抜きん出たセンスを持っているのではないだろうか。

 

もちろんギルモア自身も歌詞を書く。けれどもロジャー・ウォーターズが歌詞を書いた「あなたがここにいて欲しい Wish you were here」のように、他の誰かの言葉でも、みごとな旋律にのせて歌い上げてみせるのがギルモアなのだ。実際、この名曲にはロジャー・ウォーターズが歌っているヴァージョンもあるが、それなりに味わいがあることは認めるにしても、ぼくとしては断然ギルモアの歌いかたが好きなんだよね。

 

そのロジャー・ウォーターズと決別してから、ピンク・フロイドは『Divison Bell (1994) 』を発表する。まさにウォーターズとの「決別の鐘」が鳴ったあとで、それでもなおコミュニケーションの可能性を歌い上げるコンセプトアルバムだけれど、このこで大半の歌詞に協力したのがポーリー・サムソン。作詞家としてみごとな才能を発揮したポーリーは、その後ギルモアと結婚、公私にわたるパートナーとなり、彼のソロアルバム『On An Island (2006) 』では、すべての歌詞を書いただけではなく、ピアノやヴォーカルでも参加している。

 

そんなポーリーは、この新しいソロアルバム『Rattle That Lock (2015)』 でも作詞しているのだけれど、ギルモアはそんな彼女の言葉を歌い上げることについて、こんな風に語っている。

 

ちゃんと考えて、集中しないと歌えない。つまり、自分が歌っている言葉を生きて、呼吸して、信じなければだめってことさ。ロジャー(ウォーターズ)の素晴らしい詩のときも、ポーリー(サムソン)の歌詞についても、それができると思ったのさ。うまく歌えていればよいのだけどね。よく考えることだよね。なにせ、他人の言葉を、まるで自分のもののように使うような人間になるしかない。言葉を借りているにすぎないのさ。ぼくだって自分の言葉でも曲を書いてきたから、どんなふうにできているかわかるんだよ。

 

It takes thought and it takes concentration. I mean you have to live, and breathe, and believe the words you’re saying , and with most of Roger’s (Waters) brilliant lyrics and with Polly’s lyrics too, I find that I can do that. I hope that I do it justice. But it is something  you often think about. But, ya know, you’re forced yourself to be that person who is using those words as if they were your own. I’m only borrowing them. I mean I’ve written enough songs with words of my own to know how it’s done. *1

 

 

そうなんだろうな。たしかにそれは他人の言葉なんだけれど、それを正しく歌うためには、きっちりと考えて、集中しなければならない。言葉は借りているかもしれないけれど、その言葉が立ち上げる世界を、自分なりに呼吸して、生き直してみなければ、心に響く歌なんて歌えないのだろう。

 

おっと、前置きはここまで。ともかくぼくは、そんなギルモアが歌う曲のなかで、この『In Any Tongue 』にハッとさせられてしまったんだよね。きっかけは、このミュージックビデオ。その見事なアニメーションが描き出すのは、おそらく中東の紛争地に入った若い兵隊の姿。そこにかぶさってくるギルモアの詩が、すこしずつその意味を開示してゆくとき、ぼくは思ったんだ。そこに歌われている若者は、もしかするとぼくたちの隣人や友人、もしかするとぼくたちの恋人や家族、そしてもしかするとぼくたち自身なのじゃないだろうかってね。

 


David Gilmour - In Any Tongue (Official Music Video) 

 

つたないけれど、ぼくなりに日本語を以下においてみた。汲み取れていない意味やサブテキストのようなものが、もしかするともっと潜んでいるのかもしれないけれど、気がついた是非ご指摘くださいな。

 

では、ご笑覧。

 

 

Home and done it's just begun

His heart weighs more, more than it ever did before

What has he done? God help my son

Hey, stay a while, I'll stay up

No sugar is enough to bring sweetness to his cup

I know sorrow tastes the same on any tongue

 

兵役を終えて帰郷 それが始まりだった 

胸がぐっと重くなる それまでなかったほど 

あいつ何をしてきたんだ? 神よわが息子を救いたまえ 

ねえ もう少しいなさい まだ起きてるから 

どんな砂糖でも甘くならない息子のカップ 

わかるのさ 悲しみはどんな口にも同じ味 

 

How was I to feel it

When a gun was in my hands

And I'd waited for so long

How was I to see straight

In the dust and blinding sun

Just a pair of boots on the ground

 

ぼく どんなふうに感じればよかったの 

この手に銃なんか握り

とっても長く待ってたんだよ

それに どうすればまっすぐに見れたっていうの

ほこりと眩しい陽光のなか

地上戦というのを戦っていただけ

 

On the screen the young men die

The children cry in the rubble of their lives

What has he done? God help my son

Hey, stay a while, I'll stay up

The volume pumped right up but not enough to drown it out

I hear "Mama" sounds the same in any tongue

 

画面では若い男たちが死んでいる 

子どもが人生の瓦礫のなかで泣き叫んでる 

あいつ何をしてきたんだ? 神よわが息子を救いたまえ 

なあ もう少し居なさい まだ起きてるから 

ヴォリュームがちょうど上がっても かき消されなかった 

聞こえたんだよ「ママ」って どんな口にも同じ音 

 

How am I to see you

When my faith stands in the way

And the wailing is long done

How am I to know you

With a joystick in my hand

When the call to arms has come

 

どうすれば きみのこと目に入るっていうのさ

ぼくの信じてるものが立ちふさがるし 

悲しみなんてずっと昔のものなんだ 

どうすれば きみのことわかるっていうのさ 

ジョイスティックを手にしてるとき 

戦闘準備が命じられたんだ 

 

  

 

Divison Bell

Divison Bell

 

 

On an Island

On an Island

 

 

Wish You Were Here

Wish You Were Here

 

 

Rattle That Lock

Rattle That Lock

 

 

In Any Tongue

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Wish You Were Here

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Wish You Were Here

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*1:引用はこの記事より: 

www.inthestudio.net